頑張らない | ボランティア活動の【誠】

ボランティア活動の【誠】

ボランティア活動の【誠】は、『保護犬』の里親になり、動物保護団体を応援し、子育て支援・身寄りの無い高齢者への支援も行っております。
私はこの活動を【霊能者(拝み屋)】をする事によって支えています。

人間は「俺はこれから、このように生きる!」と思うとそうなれるものだ。


私は小学6年の2学期までは、ほとんど勉強らしき事をした事がなかった。


だから、それまでの私はいつも父に「お前はやれば出来る人間なんだ!」と言われ続けて育ってきていた。


しかし、この言葉は出来ない人間に使う常套手段だという事を、後年ある小学校の先生に教えられた。


私は思わず笑ってしまった。


私は中学生になる時「俺は今までの俺ではなく、勉強する!」と心に決めて、それまでした事がないほど勉強机に向かうようになった。


一般の生徒は小学生の頃からの実績があるから基礎が出来ている。


だが私は小学生の頃はほとんど勉強して来なかったので、中学生から基礎的な事を学ばなければ皆に追いつけない。


約6年間の差は簡単には詰められなかった。


だから私は頑張った。


イメージチェンジした私は中学2年の秋頃までは、ある程度順調だった。


しかし、母が脳出血で倒れた12月13日からは心のバランスが崩れ、全く『やる気』が失せてしまいました。


『母を喜ばせたくて頑張ってきた』けれど、その母がこの世から居なくなってしまい、私は目標を失ってしまったのだ。


それからの私は私で無くなってしまって行きました。


言うなれば自暴自棄だ。


頑張らない自分・・・頑張れない自分・・・。


それから私自身の心の中に火が点いたのは、


私が高校2年の秋、私のせいで福島県の県大会ベスト8で敗退したのがキッカケだった。


私はその秋から高校までの7Kmを走って通い始めたのだ。


その頃、後に福島商業高校から阪急ブレーブスや阪神タイガースで活躍した『古溝投手』とすれ違ったものです。


それから、私は毎日イメージをしながらバットの素振りをするようになった。


すると、父がずっと言い続けていた通りに結果が出始めたのです。


結局、私は夏の甲子園大会予選前までは、レベルの低い福島県だから笑われてしまうが7割打者だった。


その姿を見ていた父は満足そうでした。


その頃から私は『人間はちゃんと努力をすれば何とかなる!』と思うようになったのです。


自衛隊での生活は、努力した分、間違いなく良い結果に結びついた。


再び人生の歯車が噛み合わなくなり始めたのは、大好きなリハビリテーションの仕事を始めた頃からだった。


リハビリテーションの仕事は本当にやり甲斐があり楽しかった。


思いを込めて患者さんと向き合いリハビリテーションをしていると、その当時の西洋医学の常識を超える成果が出せていたからだった。


しかし、その成果を出せば出すほど上司に煙たがられるようになってしまったのだ。


それがキッカケで私は病院を辞め、自分で資格を取得して【治療院】を開業する事を目指した。


私は27歳の時『マッサージのさとう』を開業したのだが、その時に《他人に喜ばれる種子をまけば、自分も幸せになれる芽が生まれる》という言葉に出会い、一生懸命に他人に喜んでもらえるように仕事に没頭していった。


私にとって、あの頃が一番『心』も『経済的』にも裕福だったと思います。


それが28歳を迎えてまもなくの頃、私の体調に異変が起きた・・・。


夜、寝ていると首を絞められるような苦しみを感じ眠れないのである。


更に喉に違和感が出てきて食べれない・・・。


ついにはツワリのような吐き気が襲うのだ。


もうバスにも電車にも他人の車にも乗れなくなってしまった。


つまり社会生活が出来なくなってしまったのだ。


2ヶ所の病院へいくも「精神的なものでしょう。異常ありません。」と言われてしまう。


私としては異常があるからこそ病院へ行ったわけだから、もう医者は頼りにならないと思い途方に暮れた。


そんな時に【霊能者の先生(十条の先生)】に救われたのです。

当時、私が住んでいた場所は古戦場で、首塚・胴塚の上に建つ公団住宅でした。


それから「今住んでいる所から真東の所の一階に空き家があるから、そこへ引っ越しなさい。」と【霊能者の先生】に言われ、探してみたら本当に一件だけ物件があり、私はすぐに引っ越しをした。


それからの人生はもう荒波の中を航海しているようなものだった。


とにかく普通の生活が出来ないのである。


健康優良児であり、自衛隊でも体力検定1級の私がヘナヘナなのだ。


その原因は・・・【霊障】。


私はもう訳の分からぬ世界に迷い込んでしまったようでした。


私の症状を他人に話すと、大概の人には『変な人』という感じで見下されるような感じだった。


その頃から私の周りには、それまでの人生とは異なる方々が集まるようになって行った。


何もしなければ【地獄】のまま・・・、自分自身の体を治そうと思い【霊能者の先生】の所へ行くと、その時だけは楽になるが1週間も保たない。


だから、私は毎週【霊能者の先生】の所へ通った。


「辛い時こそ、這ってでも来なさい!」と【霊能者の先生】に言われていたので、私は辛い時には週に2回通ったのでした。


そんな生活を続けていたら、私はいつの間にか色々なモノが視えるようになっていた。


私にとっては『まさか!』の出来事でした。


結局は父方の祖母と同じ生き方をするようになったのです。


それが【霊能者(拝み屋)】です。


高倉健さんではありませんが、私は生きるために【霊能者(拝み屋)】を続けたわけです。


それはもう茨の道でした。


努力しても良い結果が現れる事もなく、報われない日々の連続で、気がつけば【霊能者(拝み屋)】生活33年。


今ようやく自分自身が納得できる生活ができるようになりました。


私は今【奈良県】に半月、【沖縄県】で半月という生活を営み、【沖縄県】では専ら《霊能力を鍛える》ためだけに生活しています。


つまり『頑張らないでやれる事をやる』生活をしているのです。


この『頑張らない生き方』が大切だと思います。


だから、居心地が悪い所にはいない。


何事にも【心のままに】生きるようにしたのです。


それが一番自然で良い感じがします。