赤と白には、共通して「罪」という大きなテーマがあります。

勘違いしないでいただきたいのは、他の色の人にはこのテーマがないかというと、決してそうではありません。
ただ、赤と白が特に強い関心を持っているキーワードだということです。


赤にとっての罪とは、客観的な罪です。

例えば、法律があり、それに反したならばその人は、法律に基づいて罰されなけれなならない罪人です。

法律とは、その国に住んでいるならば、誰しもが守らなければいけない、共通認識としての決まりです。

例えば強盗をしたとします。強盗は法律で禁止されていて、罰の重さも決められています。それは、誰が見ても許してはいけない罪です。

法律とは、悪意を持ったとしても、それを実行させない力です。悪を犯させない力です。
あの人から奪い取ってやりたい、と思っても、それを実行したらお巡りさんに逮捕されて、国という巨大なシステムによって相応の罰を受けます。その罰を受けることに恐れるからこそ、悪意を持ったとしても罪を犯さないよう自分を戒めます。

そういった、客観的な罪というテーマを持っているのが、赤色の人です。

偉人さんでは、ネルソンマンデラさんが弁護士や政治家になっています。
世界宗教としても、モーセの興したユダヤ教ではモーセの律法という聖書があり、ムハンマドが興したイスラム教ではコーラン(神の言葉)とスンナ(預言者の言葉)を元にイスラーム法を作っています。


白にとっての罪とは、主観的な罪です。

法律には反していないけれど、自分が罪だと感じたことです。

「ああ~、あんなこと言ってしまって、傷つけてしまったな~」
というように、法律に反していないため、お巡りさんに逮捕されることはないけれど、自分で自分を非難して、罪の意識を持っています。

他の人は、「いや、そこまで気にしなくていいよ」とみんなが言ってくれるし、相手も「ん?別に傷ついてないよ」とは言うけれど、やっぱり自分は悪いことをしたと感じるときってあります。

このように、客観的には何の罪も犯していなくても、本人は罪の意識を感じています。

また、追い詰められて犯罪を犯したもの。悪意を持って犯罪を犯したけれど、後で考えたら酷いことをしてしまった~、と罪の意識を持つこともあります。
これは、客観的にも罪ですし、主観的な罪にもなります。

客観的な罪を犯しているのに、自身は罪の意識を持っていない人は、危険な人ですね。

このように、自分で自分のしたことに対する罪で苦しんでいる人を救いたいと思うのが、白色の人です。

白色の人は、罪の意識に苛まれている人だけではなくて、病気やけがで苦しんでいる人、人から危害を受けて苦しんでいる人など、苦しんでいる人が救いたい対象になります。

偉人さんでは、浄土真宗を開いた親鸞聖人の考え方に現れています。「悪人こそ救われる」と仰る『悪人』とは、自分を罪を犯した悪人だと思い苦しんでいる人ということです。


このように、赤色の人と、白色の人とでは、『罪』という言葉の世界観が違います。


例え、全く同じ日本をを使っていたとしても、色ごとに、その意味は全く違うのだということが、良く分かります。
人と話すときには、その言葉の意味を、国語辞典で書いている意味ではなく、その人が思っている意味を知りつつ、会話を進めることが大事なのだと思います。