王陽明は、1472年に中国で生まれました。
後の人々には、「左手に書物を執り、右手に剣を撫した、儒者であり豪傑であった」と称される人でした。
10代の前半から中国北部が他国より侵略されたりすることを憂い、自国の未来のため働きたいという志を持ちました。後に、陽明は多くの賊を討伐することになります。
16歳で朱子学(当時の主なる学問)に目覚め、朱子のいう「木や草にも理がある。万物のことわりを追求していくと、一つの真なることわりが分かってくる。」という教えを実践しようと、庭の竹を見て、理を発見しようとしましたが、体感できずに挫折、その上、体調まで崩してしまいました。
そして、自分には朱子学でもって聖人になることはできないと、聖人になることを諦めました。別の道として、道教の養生の説・自然体で生きることが人の道、を学び実践しました。
しかし、「聖人は、学べば必ずなれる」という教えに感銘を受け、朱子学の学問がテストになっている科挙(役人になるための試験)にチャレンジしました。
28歳で科挙に合格、聖人になるために役人として市民のために働く覚悟をしました。しかし、またしても体調を悪くして仕事を続けることができませんでした。
そして、聖人への道を諦め、道教や仏教による養生・悟りを開こうとしました。しかし、「肉親への想いまでも捨てろという道教や仏教の教えは間違っている。」と思い、やはり聖人を目指すことを決意します。
その頃皇帝になった武宗が、一部の官僚だけを重んじる愚かな政治をし始めました。それに意見した王陽明は、左遷されてしまいました。
左遷された先は竜場といい、犯罪者が逃げてくるような地域でした。
そこでは、文化レベルも低く、洞窟で暮らし、自分で田畑を耕す自給自足の生活をしなければなりませんでした。王陽明が37歳の時でした。
竜場で更に朱子学を深めようとしましたが、朱子学のいわれる、もののことわりは自分の外にある、ということが受け入れられませんでした。
その時、朱子のライバルであった陸象山の「心即理」という考えを受け入れ、自分の心にこそ理はあるのだ、ということを悟りました。
『心の外に道理はなく、心の外に物はない。全ては心の中にある。』
『心が明らかになれば自ずと道も明らかになる』
また、自分の外にあることは、心が投影されたものであるとしました。
そのため、心で本当に思ったかどうかは、それを行動に移したかどうかだと考えました。
これを、知行合一と言います。
『君子は行いをもって言い、小人は舌をもって言う』
『自分が正しいと思うことは、現実になさねばならない』
『実行の中にのみ学問がある。行動しなければ学問ではない。』
39歳の時、罪を許され、江西省の知事に任命されました。
生活も安定した中、この考えを広め、弟子もでき、広め始めました。
45歳の時、いくつかの賊を討ち取る役目につきました。今まで何度も討伐隊を送るが、打ち取れなかった賊でした。
王陽明は、まず仁義の王道でもって説得に当たりました。
説得に応じない者には、少数精鋭の奇襲による武力討伐を行いました。
更に、現地の戦後の復興まで手がけました。
非常に多才な面が見られました。
『山中の賊を破るのは易く、心中の賊を破るのは難し』
49歳の時、陽明独自の教えとして「到良知」を説き始めました。
「到良知」とは、本来全ての人は心の中に、素晴らしい知を持っている。しかし、その心にある良知は修行をすることによって使えるようになる、という教えでした。
朱子学では、心の外にある物に良知があると説いているが、それに納得できなかった陽明にとっての答えでもあり、これより後、陽明学といわれる大事な教えになります。
『聖人を信じて教えに素直に従うのもいいことだが、本来持っている善心に従うほうがいい』
『性善説的な考え方を、「そういうものに対しては、みな、感じるものがあるのだ」と信じること』
『学問が自分の心の中に刻まれるのが第一義である。もし自分の心に照らし合わせて、誤りだと思ったら、たとえ孔子の言葉であろうとも、それを正しいとしてはいけない』
『人は皆聖人である。しかし、時間がたつにつれ私欲が生じ、物欲が生まれ、他人と自分とを一体のものだと考えられなくなる。だから本来持っている聖人の心に戻るために、私欲に打ち克たなければならない』
『名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できていない。
大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。』
『一分でも人欲が減らせたら、それはその一分だけ天理を回復できたということで、なんと軽快で簡単なことであるまいか』
56歳の時、賊の討伐を命じられ、賊を討伐しましたが、体の衰弱が激しかった陽明は、亡くなりました。
王陽明の教えは、日本にも陽明学として伝わってきました。
そして、明治維新のときの維新志士の原動力にもなったといわれています。