今回 私がバッチャンの死亡届を市役所に

出しに行って火葬許可証をいただきました。

この火葬許可証がないと火葬してもらえません。

火葬場は市内にあるため 市民の場合は

3000円で火葬してもらえます。

市民じゃないとかなり高額のようです。

 

その時 市役所の人が

「 この火葬証明書を火葬場に提出すれば

個人でも火葬してもらえます」 と言われ

私は 一瞬 ポカーンはてなマークとして・・・

<いえ 葬儀会館に渡します>と答えました。

 

帰り道 市役所の人が言われた言葉の意味を

考え…考え・・・

 

火葬証明書があれば 葬儀は行わなくとも

病院から 自宅から そのまま故人を

火葬場に運んで火葬してもらえるんだ と

理解したんですが・・・

想像力がムクムク(笑)

悪さをすれば棺の中を差し替え

ちゃうこともできる?

はて? テレビの刑事番組で観たような気が

するようなしないようなテレビ

 

身寄りのない人などは、葬儀を行わず

そのまま火葬場へ という場合もあるのでしょうね。

 

今回 タイトルが<バッチャンの葬儀> でも

<義母の葬儀>でもなく

あえて<姑の葬儀>にした理由は~

 

私にとっては  バッチャンは おばあちゃんでもなく

義母でもなく、亡くなるまで <姑>でした。

 

孫たちは 姑の事をもちろん<おばあちゃん>と

呼ぶんですが・・・私は バッチャンが亡くなるまで

姑を呼ぶ時は「お義母さん」以外 呼んだことはないパー

 

106歳になっても 面会の時に声をかける言葉は

<お義母さん>でした。

 

お嫁に来て43年間同居して その後6年間は

姑はホーム暮らし でも病院の通院や毎年いくつもある

事務手続き 衣替えなどの衣類の持ち込みなどは

全部 私の仕事 嫁の私の務め・・・・です。

 

姑と私の間に 他人行儀な溝があったとは思いませんが

姑の気分次第で怒りの感情の矛先は、

いつも嫁である私に向けられるビックリマークあせる

思う出来事も数えきれまいほどありました。

 

ブログを始めて、<嫁・姑>のテーマでその都度の出来事を

綴るようになって、やっと私のやりきれない気持ちを

ぶつける事ができたんです。

書くことで吐くことで私の気持ちも落ち着き

怒りや憂いも明日へ持ち越さないようになりましたね。

 

でも嫁の立場 嫁の務め は 常に頭の隅にはありましたが。

 

そして今回 痛烈に<嫁は他人> という事を

感じた事柄がありました。

先日 バッチャンの除籍謄本が入用だったので

市役所へ取りに行きました。

そこで言われた事

「 同居のお嫁さんでは 謄本は取ることができません

  おばあちゃんの子供さん あるいは孫で 直系の

血の繋がりがある人でないと謄本は取れないんです 」 

 

「 ・・・・・・ガーン

 

もうビックリです!! 半世紀もの間 嫁として仕え

家事一切 を任され ジッチャンバッチャンと同居して

ジッチャンを見送り そしてバッチャンを見送り

今もなお この家をこの店を守っているのに

血の繋がりのない事で 謄本が取れないという現実を

目の当たりにして 愕然としました汗汗

 

その後 ホームにいる主人を連れて行ったので

除籍謄本は取ることができましたが。。。。

 

血の繋がりのないことだけで謄本が取れない

日本の制度の理不尽さ 

いくら本人確認ができても 血の繋がりが

邪魔をするこの制度に ちょっと

疑問を感じました。

(外国の事は知りませんが・・・)

結局 <嫁は他人><嫁・姑>という根本が

この現代社会においても、

まだ根強く残っているということでしょう。

 

 

やっと<嫁>の立場から解き放たれた私

嬉しいという感情が生まれるのかな? と

思ってたんですが・・・

ただただホッとしたという穏やかな気持ちしか

湧いてきません。

 

姑の元気な頃の嫁・姑バトルも

今では過ぎ去った思い出・・・

姑と長年同居して学んだ経験は 

これからの私の糧となり誇りとなり

生きていくうえでの教えになります。

 

お義母さん 今まで ありがとうございました。

 

どうか安らかにお眠りください。お願い

 

 

長々読んでくださりありがとうございましたm(__)m

 

 

お願い今日のお花 晴れ