自分の心を磨く
「自分の心を磨く」というお話です。
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渡部昇一氏の心に響く言葉より…
講談社を創業した野間清治が、ある民衆教育団体の主催する講演会を聞きに行ったときのことである。
そこにはあらゆる職業、あらゆる地位の男女の聴衆がいた。
大学生も小学生もいた。
紳士もいたし、粗末な身なりの労働者もいた。
富める者も貧しき者も、学者も無学者もみんなが座っていた。
講演する人も、いろいろな階層を代表するようにさまざまだった。
しかし、有名な実業家が立って話すと、サラリーマンや大人は熱心に聴くけれど、子供や学生は退屈した顔をしている。
大学教授の講演はインテリ層には受けているが、老人、婦人の頭の上は通り越しているようだ。
野間は講演をずうっと聴いていたが、全聴衆を引きつけるような人はいまだ登場していなかった。
やがて演壇に有名な僧侶が立った。
彼が二言三言話すと満場がしんとなって、小さい子供までがその言葉を聞き逃すまいと一所懸命聴いている様子だった。
その僧侶は、たとえ話や逸話を使いながら仏教の教えを面白おかしく話していた。
野間は「これだ!」と思った。
万人向けの雑誌を創る鍵はここにあるとひらめいたのである。
たとえ話や逸話ならば誰でも聞く。
これこそまさに江戸時代の「心学(しんがく)」の本領である。
「心学」というのは特定の人に話すわけではなく、教える人が
「自分の家に話を聞きにきなさい。
誰でもかまいません。
武士でも町人でも、老人でも子供でも女でもかまいませんよ」
といって集めて、面白い話、たとえ話、みんなが納得すること、道歌などを聴かせていたのである。
つまり、いつの時代であれ、すべての人が話を聴くのは、たとえ話、偉い人の逸話などの面白いもので、しかも為になる話だったということなのである。
思想史の中では軽視されているといっていいが、日本を変える大きな力となったものに「心学」がある。
江戸時代に発達した心学は、仏教であろうが神道であろうが、儒教であろうが、心を磨く材料になるものはどんどん使えばいいと考えるユニークな思想であった。
この心学こそが、日本で生まれた真に日本的な思想であると私は思っている。
心学が最も大切にするのは「自分の心を磨く」ということであって、そのための材料になるものであればなんでも構わないから取り上げる。
宗教のように「最初に教義ありき」ではなく、「最初に心ありき」なのである。
つまり、心学は普通の宗教とは逆に人間中心であって、そうであればこそ、どんな偉大な宗教の思想も自分を磨くための材料になってしまうのである。
人間の心が銅の鏡であるとすれば、仏教も儒教も神道も、それを磨く「磨き砂」となるわけである。
このような心学の考え方は、日本の江戸時代が生んだ「人間主義」の思想といっていいと私は思っている。
『「仕事の達人」の哲学』致知出版社
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「自分の心を磨く」ことがとても少なくなってしまった今の日本には、この「心学」のような考え方が必要な気がしてなりません。
宗教を超えた教えですね。
人が人として、生きていくためのよりどころとなるものだと思います。
これは、お金や物では、幸せを実感できないことに気がついた人々が、徐々に「心の時代」が来たと感じ始め、頼るところの一つだ、と思います。
そもそも、宗教とは、自分を成長させてくれるものだと、私は思っています。
どうしても、宗教という言葉のイメージをマスメディアが一方的に悪い方向へ誘導しているようで、宗教を毛嫌いする人が多いですが、本来は、人が生きていくため、人が成長するため、幸せを実感するために、なくてはならないものだと思います。
そんな風に考えるようになって、よい宗教か、悪い宗教かを見極める一つの基準を見つけました。
それは、その宗教が必要以上のお金や物を信者に要求していないかどうかです。
この点だけを注意して、いろいろな宗教の主張していることに、耳を傾けてみるのも、いいことではないかな、と思います。
さらに「自分の心を磨く」ことができる機会に巡り会えたらいいですね。
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渡部昇一氏の心に響く言葉より…
講談社を創業した野間清治が、ある民衆教育団体の主催する講演会を聞きに行ったときのことである。
そこにはあらゆる職業、あらゆる地位の男女の聴衆がいた。
大学生も小学生もいた。
紳士もいたし、粗末な身なりの労働者もいた。
富める者も貧しき者も、学者も無学者もみんなが座っていた。
講演する人も、いろいろな階層を代表するようにさまざまだった。
しかし、有名な実業家が立って話すと、サラリーマンや大人は熱心に聴くけれど、子供や学生は退屈した顔をしている。
大学教授の講演はインテリ層には受けているが、老人、婦人の頭の上は通り越しているようだ。
野間は講演をずうっと聴いていたが、全聴衆を引きつけるような人はいまだ登場していなかった。
やがて演壇に有名な僧侶が立った。
彼が二言三言話すと満場がしんとなって、小さい子供までがその言葉を聞き逃すまいと一所懸命聴いている様子だった。
その僧侶は、たとえ話や逸話を使いながら仏教の教えを面白おかしく話していた。
野間は「これだ!」と思った。
万人向けの雑誌を創る鍵はここにあるとひらめいたのである。
たとえ話や逸話ならば誰でも聞く。
これこそまさに江戸時代の「心学(しんがく)」の本領である。
「心学」というのは特定の人に話すわけではなく、教える人が
「自分の家に話を聞きにきなさい。
誰でもかまいません。
武士でも町人でも、老人でも子供でも女でもかまいませんよ」
といって集めて、面白い話、たとえ話、みんなが納得すること、道歌などを聴かせていたのである。
つまり、いつの時代であれ、すべての人が話を聴くのは、たとえ話、偉い人の逸話などの面白いもので、しかも為になる話だったということなのである。
思想史の中では軽視されているといっていいが、日本を変える大きな力となったものに「心学」がある。
江戸時代に発達した心学は、仏教であろうが神道であろうが、儒教であろうが、心を磨く材料になるものはどんどん使えばいいと考えるユニークな思想であった。
この心学こそが、日本で生まれた真に日本的な思想であると私は思っている。
心学が最も大切にするのは「自分の心を磨く」ということであって、そのための材料になるものであればなんでも構わないから取り上げる。
宗教のように「最初に教義ありき」ではなく、「最初に心ありき」なのである。
つまり、心学は普通の宗教とは逆に人間中心であって、そうであればこそ、どんな偉大な宗教の思想も自分を磨くための材料になってしまうのである。
人間の心が銅の鏡であるとすれば、仏教も儒教も神道も、それを磨く「磨き砂」となるわけである。
このような心学の考え方は、日本の江戸時代が生んだ「人間主義」の思想といっていいと私は思っている。
『「仕事の達人」の哲学』致知出版社
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「自分の心を磨く」ことがとても少なくなってしまった今の日本には、この「心学」のような考え方が必要な気がしてなりません。
宗教を超えた教えですね。
人が人として、生きていくためのよりどころとなるものだと思います。
これは、お金や物では、幸せを実感できないことに気がついた人々が、徐々に「心の時代」が来たと感じ始め、頼るところの一つだ、と思います。
そもそも、宗教とは、自分を成長させてくれるものだと、私は思っています。
どうしても、宗教という言葉のイメージをマスメディアが一方的に悪い方向へ誘導しているようで、宗教を毛嫌いする人が多いですが、本来は、人が生きていくため、人が成長するため、幸せを実感するために、なくてはならないものだと思います。
そんな風に考えるようになって、よい宗教か、悪い宗教かを見極める一つの基準を見つけました。
それは、その宗教が必要以上のお金や物を信者に要求していないかどうかです。
この点だけを注意して、いろいろな宗教の主張していることに、耳を傾けてみるのも、いいことではないかな、と思います。
さらに「自分の心を磨く」ことができる機会に巡り会えたらいいですね。