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9月9日(土)ルートその3

鳥居大澤瀧神社(花巻市東和町砂子4-107)

 

ルート2で行った丹内山神社からほど近いところに(車で10分程)あります。

丹内山神社には、八幡太郎義家(源義家)の勧請とされる八幡神社が境内社としてありますが(弟の加茂次郎義綱の勧請とされる加茂神社もあります)、大澤瀧神社は、安倍氏の歴史悲話とともに、源義家による「瀬織津姫命」勧請を色濃く伝える社です。

 

 

天照皇大神(天照大神)と豊受大神(瀬織津姫)
ツインであると言うことをこの石碑は教えてくれています。

 

 

手水舎です(石で作られていて風情がありました。)

 

 

拝殿

 

【大澤瀧神社 由来】


一、祭神 瀬織津姫命、迦具土命
二、祭典 元旦祭 一月一日  

              春祭(火防祭)三月九日  

              例大祭 九月九日
三、由来
 康平五年(一〇六二年)陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が、厨川柵を攻め滅ぼし、俘囚の長兼六郡の郡司安部(安倍とも…引用者、以下同)頼時の長男安部貞任を戦死させた。源氏の基盤を固めた前九年の役である。
 安部貞任が、一族の本拠地奥六郡から北の厨川へ、山峡を忍んで駒を進めたであろう、栄華の後の寂しい最後の逃避行となった。
 安部貞任の娘「真砂姫」が父貞任の後を追いこの地大沢の滝川にさしかかった。父の身を案じ、父の身代わりとの思いだったのであろうか、この滝川に身を投じてしまった。
 後に源頼義の子八幡太郎義家が「真砂姫」を哀れみ、現在の古滝大明神の地に社を建立して「瀬織津姫命」を勧請、姫の霊を弔ったと伝えられており、地区内外を問わず厚い信仰を集め今日に至っている。
 現在の社殿は文政年間(一八一八~一八二九年)の建立で二度目の改築と伝えられ、「迦具土命」との合祀となっている。特に縁結びの神様として地域社会の心の結び合いの所縁として親しまれており、毎年九月九日賑やかに例大祭を行っている。
 なお、当地「砂子」の地名は「真砂姫」に由来するとの説がある。


附記
 この地は遠く縄文時代の三〇〇〇年前から、清水を求めて人が住み着き、東和町では数少ない弥生時代(天ヶ沢や八日市場)の遺跡も残されており、水と共に暮らす人々の跡を止めているところです。

神の依代であった大桧木とともに、水に浮かぶ真砂姫の心を思い浮かべながらお参りください。

 

平成十五年三月九日 大澤瀧神社
-ここまで転載-


 

 

 

↓御神木のあった跡地

 

 

大澤瀧神社の由来(上段)
 大澤瀧神社には、次のような物語が言い伝えられている。
 今から九五十年ほど前、前九年の役と呼ばれる戦いで、安倍貞任[あべのさだとう]と源義家[みなもとのよしいえ]の軍が戦った。この貞任の娘「真砂姫[まさごひめ]」についての悲しい話である。
 義家の軍に追われ猿ヶ石川を渡った安倍貞任は、谷内峠から田瀬に越えると宮守の笹岡へと向かった。姫も父の後を追ってこの大沢の地までやってきたが、家来の直義のほか共に来る者もなかった。「今夜はここで休息しましょう。」という直義に対して、姫は「すでに父は戦いで死んだかも知れません。自分一人生きていてもどうなることでしょう。ただ、幼い弟・千代童丸の命だけは助けてほしいと義家公にお伝えして下さい。」と言って手紙を書き、切り取った自分の長い髪で義家からもらった一寸二分(およそ三・六センチ)の観音様を包むとそれらを直義に頼んだ。
 そのとき、姫が笠を掛けた松は今でも「傘[ママ]松[かさまつ]」と呼ばれている。
 それから姫は、自分が乗ってきた馬に「よくここまで私と共に来てくれました。これから先は自由に行きなさい。」と言った。するとその馬は涙を流しながら山の上まで行き、西に向かって二度鳴いてから倒れて死んでしまった。この馬の「大鹿毛[おおかげ]」という名前からその山を「大鹿山[おおじかやま]」と呼ぶようになった。
 そのあと姫は、大澤の瀧にある大石の上で法華経を唱えると、川の中に飛び込み姿が見えなくなってしまったが、滝壺の中から白い光が飛び出して東の空に消えたという。それは九月九日の夜の事だった。
 残された家来の直義は次の日、笹岡城へ行くと義家に昨夜の事を伝えた。義家が姫の事をあわれに思い、父である源頼義[みなもとのよりよし]に相談してみると、「大澤瀧大明神[おおさわたきだいみょうじん]として奉るのが良い。」と言われた。
 こうして、真砂姫の霊を「瀬織津姫神[せおりつひめのかみ]」としてはじまったのが大澤瀧神社であり、九月九日が祭りの日と決められている。
 また、真砂姫の名からこのあたりを砂子[いさご]と呼ぶ様になったと伝えられている。

 

 

大澤瀧神社の七不思議(下段)

一、神社の建物にツララができない。

二、瀧川を流れる水音で風雨の予知ができる

三、夜中の神社に行くと、誰もいないのに大勢の気配がする。

四、境内で年に三度咲くツツジがあり、後の時期ほど花が多い。

五、神社には二羽一つがいのカラスのほか、カラスは来ない。

六、瀧のそばの大石にくぼみがあり、その中の水が干上がることはない。

この水で目を洗うと眼病に良いとも言う。

七、神社の山にある栗は一年で実をつけ、明神の柴栗と呼ばれている。

 

 

↓瀧川へおりてみました。

 

瀧川におりると陽光が差し込んできてとても綺麗でしたにこ

 

 

七不思議にあった、「三、夜中の神社に行くと、誰もいないのに大勢の気配がする。」ですが、この↓剣をみて意味がわかりました。

瀬織津姫を守っているのですよね。

 

上の陽光の写真とこの社裏の剣の写真は同じ方向ではないので、陽光ではないのがわかっているだけに、光の入り方がとても不思議です。↓

 

 

 

 

 

↑古い参道を現在に残していて、往時の信仰の厚さを現在に伝えてくれています。↓

 

関係ないのですが、何故か私は・・・

「君の名は」の三葉のセリフでインパクトのあった、『瀧くぅ~んっ』と叫んでしまいました笑

 

 

帰って来てからわかったことなのですが・・・

丹内山大神(ルート2で行った丹内山神社の御祭神)の出現地は「瀧ノ澤神社」(現在の滝ノ沢神社(ルート1だった、辿り着けなかった神社です))の「瀧」でした。

真砂姫は「大澤の瀧川」に身を投じたとされます。

この大澤瀧神社という社名も、正確には、大澤の「瀧神社」ということなのだそうです。

 

 

 

鳥居稲荷神社

大澤瀧神社の道を挟んで向かい合うように稲荷神社がありました。

 

 

 

 

天照皇大神が巨石の上に祀られており、この巨石は大澤瀧神社(瀬織津姫)と向き合うようになっていました。

 

 

 

***

 

調べてわかったことがありました。

それがこの古瀧神社です。(お借りしてきた画像で紹介させていただきます。)

 

鳥居古瀧神社

由緒によれば、義家は、「現在の古瀧大明神の地に社を建立して『瀬織津姫命』を勧請」したとあります。

境内には「早池峯大神」の石碑もありましたが、社殿(祠)はなぜか二つ並んでいて、この並祭される祠の神の一神は「瀬織津姫命」に間違いないのですが、もう一方の祭神については、もうだれも覚えていないとのことです・・・。

(天照皇大神であってほしいと私は思っています。)

 

 

 

 

偶然にも、予定していたのは最初からククリの日の(9/9)でした。

ククリの日は例大祭の日でもあったのですが、それを見ることは叶いませんでしたが、ククリの日に来ることができたのはやはり導きなのだと思います。

 

 

私達は御神事をさせていただいて次なるルートへと向かいました。

(言語化できないワークの為「御神事」で要約させていただいています。)

 

 

 

つづく・・・

 

 

 

 

 

天使の羽愛と光と感謝をこめて天使の羽