寅の刻

明烏が頭上を飛ぶ中、一人の人間が江戸を走っていた。
じんわりと額に浮かぶ汗が、朝の空気に浮いている。
太陽が未だに寝むそうに目を擦る刻限の為か、江戸は妙に静かだった。

「……ふぅ」

走っていた人間は足を止めて息を吐いた。
寝惚けの光に照らされたのは、一人の女だった。
耳に掛かる程度の黒髪に、同じ色の瞳を持つ女は額の汗を袖で拭った。

何とも妙な女である。

本来ならばその身を包んでいるはずの着物ではなく、男物の着物を着ていたのだ。
地味な紺色の袴を穿いたその女は何かを思い出したかのように眉を顰めた。

「失敗したことがそんなに悔しいのか?」

「!!」

突如聞こえてきた声に、女は驚いて声の主に目を遣った。
其処に居たのは漆黒の長髪と上物の袴を朝の風に靡かせ、塀に寄り掛かっている一人の男だった。

「まさかこれ程上手くいくとは思っていなかったな」

男は言葉と共に塀から離れると、静かに女に歩み寄った。
女は思わず眉間の皺を深くして呟いた。

「どういうこと?」

「囮だった。それだけさ」

低く声を発する女の言葉に返事をしたのは、男とは違う声だった。
背後から飛んできた其れに、女は慌てて振り向く。
其処には男のように塀にその身を預けて立つ一人の女。

紫煙を漂わせるその女は、左目に唖然と立ち尽くす女を映して面白そうに桜唇を歪めた。

「さてと、立ち話は好きじゃあない。あっちの家に行こうじゃないか」

江戸は静かに起き出した。





「お帰りなさい」

綾菜と腕に抱かれた朔夜、そして何処か呆れた表情を浮かべる紅に迎えられ、闇鴉の家に入れば、不貞腐れた様子の勒七が茶菓子を頬張っていた。

「おや、お帰り。上手くいったのだねえ」

余程囮役が嫌だったらしい。
だが今大切なのは捕まえた女のこと。
暴れず大人しくしている女は何とも不気味だった。

「お前は何の為に事件を起こしたのだ?」

紛らわす様に言葉を発した悠助に、女は馬鹿にした様に口を歪めた。

「そんな事知ってどうするのさ」

「あっちらには知る権利があると思うけどねえ。雪代」

「!?」

その言葉に女は目を見開いて闇鴉とその横に立つ紅を凝視した。

町ではそう見掛けない派手な着物に片目を覆う包帯。
見覚えのある姿ではないのに、何故か懐かしく感じる二人に、雪代と呼ばれた女は困惑した。

「……あちきらのことを忘れたわけではないでありんしょう」

闇鴉の口から出た廓詞に、雪代は唇を震わせた。

「……紫苑…姐さん」

その呟きに悠助達三人が思わず目を見開く中、闇鴉は懐かしそうに声を発した。

「雪代はねえ、あっちの振袖新造だったのさ。あの吉原での事件の時、雪代は怪我をしなかった。そして其の後はあっちと同じ花魁になった」

「……同じ?冗談じゃあない。立場は同じでも、扱いは丸で違った!!」

唖然とした表情を一変させ、雪代は眉を吊り上げた。

「綺麗な儘出ていったお前に……綺麗な儘残っているお前に……私の気持などわかるものか!!」

そう言って雪代は悔しそうに唇を噛み締めた。

「……人は、身勝手だ」


――哀しい生き物


沖田は人間のことをそう言っていた。
悠助は其の言葉を思い浮かべながら口を開いた。

「確かに、人間は身勝手だ。我儘で欲深い。其れが人間だ。でも、其れでは生きていけない。だからこそ、人は学び、己を制御する。人間は其れが出来る生き物だ」

「甲乙を付けるのも、偏見を持つのも、誰かを疎外するのも人間だからという言葉で片付けるつもりか?傷付けられても、己を制御して怒りを鎮めろとでも言うつもりか?」

雪代は先程よりも怒りを露わにし、声を荒げた。

「そうではない。他人の言葉によって道を見失うなということだ。お前に何があったのかは知らない。だが、今回の事件はお前の身勝手な行動の結果だろう」

珍しく口調を強めた悠助に、雪代は思わず口を噤んだ。

「負の連鎖は、誰かが断ち切らねば永遠に切れない。それに、負の感情は周りだけではなく、己にも傷を付ける」

『強すぎる感情は、他人だけではなく、己も傷付ける。良いかい、雪代。決められた枠から食み出す感情は持ってはいけない。持ってしまった時、制御出来なければ生まれるのは破壊だけだ』

嘗てそう言って優しく微笑んでくれたのは、漆黒の長髪を結い上げた一人の男だった。

「……馬鹿みたい」

そう呟いた雪代の瞳からは、静かに涙が流れていた。
悠助と雪代だけの声が漂っていた空間に、次々と波紋を広げていく。
そっと雪代の肩に添えられた闇鴉と紅の手は、決して振り払われることはなかった。


――私の道は……まだありますか?


かごめ唄を響かせる子どもたちの声が、慰めるかのように波紋を揺らす。

江戸は、何時もと変わらない歯車を回していた。


第弐章 『影武者』 完