(7月13日付 編集手帳より)


 政党を深海魚にたとえている。

 深海魚のからだは海底の大きな圧力に耐えられるようにできており、いきなり海面に浮上すると、外側の圧力が急に減るために、内臓が口から出てきたり、眼球が飛び出したり、悲惨な様相を呈するという。
 長い野党暮らしから政権与党に躍り出た政党も、急浮上した深海魚に似ているという。ただし、内臓や眼球が飛び出でるということはなく、「傲(おご)り」が飛び出てくるというのだ。秘書らが3人も逮捕・起訴されながら、党幹事長の要職にあった人がただの一度も国会の場で釈明していない事実ひとつにもそのような傲りが見てとれたと著者は言う。そして、野党に協力を仰いで“ねじれ国会”を乗り切るつもりならば、そのような傲りは厳禁であると指摘する。


 いつもながら、うまいことたとえるものだと感心する。しかし、やはりそれはたとえであり、論理に限界がある。


 深海魚が海面に急浮上したとき、なにも内臓や眼球を飛び出させようとして飛び出しているわけではない。不可避的にそうなっているのだ。
 よって、長らく政権にいなかった野党を深海魚とし、彼らが政権をとることを海面への急浮上とし、内臓や眼球が飛び出ることを「傲りが出ること」とするのなら、そのような傲りは不可避的に生じたものということになる。そうすると、傲りは厳禁であると主張する著者の論理は、自ら、長らく政権にいなかった野党は深海魚ではなかったと言っているようなもので、論理の前提を自ら否定している。いわば自己矛盾である。


 著者が言いたいことは理解できる。そして、うまく言ったものだとも思う。
 しかし、自己矛盾であることに気付いたとき、そのたとえを利用することは止めるべきではないだろうか。