(7月30日付 編集手帳より)


 19世紀に活躍したフランスの作家バルザックは、当時の大都会パリを「海」にたとえたという。
「そこに測鉛を投じたとて、その深さを測ることはできまい」

(岩波文庫版『ゴリオ爺(じい)さん』より)。


 探索し尽くしたつもりでも、必ずや見知らぬ洞穴が残る、という意味だそうだ。


 著者は、この内容を紹介した上で、大都会東京もまた、いつの間にか「海」の仲間入りをしていたことに気付く。最高齢とされていた東京都足立区在住の111歳の男性が実は30年ほど前に亡くなっていたという衝撃のニュースが、あたかも深い海溝の洞穴から浮上した泡のように捉えられるという。足立区は、昨年、一昨年と、この男性を健康高齢者として表彰し、祝いの品を郵送していたというのだから、著者でなくても驚きである。


 そして、著者はこう締めくくる。
 「ドイツのどこかの水族館にいるタコの名前は知っているのに、すぐそばにいる人の生き死にを何十年間も知るすべがない。何でも見えるような、何ひとつ見えないような、不思議の海を人は生きている。」


 しかし、ちょっとこの帰結には疑問もある。


 そこでいう「すぐそばにいる人の生き死に」という情報は、「測鉛を投じる」という行為すら行っていないから、得られていないだけではないだろうか。他方、タコの名前に関する情報は、各報道機関が大量の測鉛を投じまくっているので、得られているに過ぎない。
 要するに、「測鉛」を投じる行為の有無に依存するのであって、海自体は何ら「不思議」なものではないような気がするのだ。


 本日、私は33歳の誕生日を迎えた。私が生まれてから現在までの期間が、足立区のその男性が死亡していたことに気付かれなかった期間とあまり差がないということに、改めて驚きを感じずには居られない。