ほとんどの人は生活するのに忙しくて
自分のために
お金や時間を使う余裕がありません
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こんにちは
くまモンも元気な熊本から
大塚マナミです
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わたしはこれまで一生懸命働いてきました
教師時代は週6日1日15時間
専業主婦になったら週7日昼夜問わず
家のこと子どものこと
夫婦関係のこと近所付き合いのことで
いっぱいでした
だけど
毎日自由なのに
パートナーにも友人にも
愛されるようになったのは
働く時間が減ってから、、
ずいぶんと減ってからです
そして現在
わたしは知人の間で
明るくて元気
何の苦労もしていない人
だから
こんな生き方ができるのだと思われています
ここでわたしは
一人一人にお話しするには時間をとりすぎるため
話さないでいたことを
暴露しなくてはなりません
なぜか?
それは
わたしがもともとよかったわけではないこと
みなさんと一緒だったところから
もしくは
人はドン底から這い上がれることを
証明するためです
1981.4.17
予定より2週間はやく
わたしは熊本県の北の方に誕生しました
堀 麻那美
「麻糸のように強く優しく
まっすぐに生きて美しくありますように」という
願いが込められています
父はJA職員、母は専業主婦(後に保育士に復帰)でした
一般的な家庭に生まれたように思いますが
父方の祖父母の意向で
土壁、裸電球の納屋が住まいだったそうです
夫婦仲も嫁姑仲もよくなく
家庭が暗く落ち着かない雰囲気を感じていました
母はこのままではいけないと家を出るため
2歳のわたしと0歳の妹を連れ自動車学校に通い
市外に家と職場を見つけて自立を目指しました
自動車学校の窓から母を見ていたのを覚えています
そして引越し
母は保育士に復帰
父は市外の職場まで通勤
わたしと妹は朝6時半には一緒に保育園へ
そして帰りは残業が終わる夜8時頃帰宅の
毎日がはじまりました
バタバタと過ごす毎日
今思うと
この頃から37歳になるまで
この習慣を繰り返したことになります
保育園も厳しいところで
誰かが言うことを聞かないか
失敗をすると
連帯責任ということで
ヒンズスクワット600回が課せられていたり
泳ぐ練習も
足がつかない深さのプールに投げ込まれて
泳げたらおよげる
泳げなかったら先生が飛び込み助けに行ったり
問答無用、そんな所でした
母も必死に生きていたので
仕方がなかったのだと思います
だから
何も言いたくなかった
母を困らせたくない
迷惑をかけたくない
そう思って買って欲しいものも言いませんでした
おもちゃのチラシを見ては
好きなものに丸をつけて楽しんでいたなぁ
母がゆるせるだろう
範囲内で物事を選び続けました
(情報が入らなかったことも原因の一つです)
そして
7歳の時
だんだん父が帰宅しない日が出てきました
制服が長袖だったので冬か春だったのだと思います
小学校に登校する朝
その日は父と過ごす最期の時間でした
久しぶりに会ったあの日が最期になるなんて
会えて嬉しい気持ちと学校に行ってしまえば
もう
会えなくなる悲しみ
父は最期に
わたしたちの手にオリンピックの記念硬貨を
握らせてくれました
離婚するとき
父が納得するため
母はすべての財産と引き換えに
親権をとったそうです
だから
あの日帰宅したら
家からは電話も家具も車2台ともなくなり
保険証も切られ養育費も慰謝料もなし
当時の母の月給8万円で
母一人こども二人
立て直すことになりました
その時の硬貨も
父の写真も
もう何もありません
続きは
母の再婚
妹の誕生
そして新しい家庭は…
【怠け者が愛される方法②】へ
#大塚麻那美