ほとんどの人は生活するのに忙しく

自分のため

お金時間を使う余裕がありません





こんにちは

くまモンも元気な熊本から

大塚マナミですニコニコ



わたしはこれまで一生懸命働いてきました

教師時代週6日1日15時間

専業主婦になったら週7日昼夜問わず

のこと子どものこと

夫婦関係のこと近所付き合いのことで


いっぱいでした



だけど

毎日自由なのに

パートナーにも友人にも

愛されるようになったのは

働く時間が減ってから、、

ずいぶんと減ってからです




そして現在

わたしは知人の間で

明るくて元気

何の苦労もしていない人

だから

こんな生き方ができるのだと思われています








ここでわたしは

一人一人にお話しするには時間をとりすぎるため

話さないでいたこと

暴露しなくてはなりません



なぜか?

それは

わたしがもともとよかったわけではないこと


みなさんと一緒だったところから

もしくは

人はドン底から這い上がれること

証明するためです


⇧2020.9.1 天草牛深茂串海水浴場 キャンプにて



1981.4.17

予定より2週間はやく

わたしは熊本県の北の方に誕生しました



麻那美 

「麻糸のように強く優しく

まっすぐに生きて美しくありますように」という

願いが込められています流れ星



父はJA職員、母は専業主婦(後に保育士に復帰)でした

一般的な家庭に生まれたように思いますが


父方の祖父母の意向で

土壁、裸電球の納屋住まいだったそうです


夫婦仲も嫁姑仲もよくなく

家庭が暗く落ち着かない雰囲気を感じていました

1歳頃のわたし


母はこのままではいけないと家を出るため

2歳のわたしと0歳の妹を連れ自動車学校に通い

市外に家と職場を見つけて自立を目指しました


自動車学校の窓から母を見ていたのを覚えています



そして引越し

母は保育士に復帰

父は市外の職場まで通勤

わたしと妹は朝6時半には一緒に保育園

そして帰りは残業が終わる夜8時頃帰宅

毎日がはじまりました



バタバタと過ごす毎日

今思うと

この頃から37歳になるまで

この習慣を繰り返したことになります


保育園厳しいところで

誰かが言うことを聞かないか

失敗をすると

連帯責任ということで

ヒンズスクワット600回が課せられていたり


泳ぐ練習も

足がつかない深さのプールに投げ込まれて

泳げたらおよげる

泳げなかったら先生が飛び込み助けに行ったり


問答無用、そんな所でした






母も必死に生きていたので

仕方がなかったのだと思います



だから


何も言いたくなかった


母を困らせたくない


迷惑をかけたくない


そう思って買って欲しいものも言いませんでした


おもちゃのチラシを見ては

好きなものに丸をつけて楽しんでいたなぁ





母がゆるせるだろう

範囲内で物事を選び続けました
(情報が入らなかったことも原因の一つです)



そして


7歳の時

だんだん父が帰宅しない日が出てきました



制服が長袖だったので冬か春だったのだと思います


小学校に登校する朝


その日は父と過ごす最期の時間でした

久しぶりに会ったあの日が最期になるなんて


会えて嬉しい気持ちと学校に行ってしまえば

もう

会えなくなる悲しみ


父は最期に

わたしたちの手にオリンピックの記念硬貨を

握らせてくれました



離婚するとき


父が納得するため


母はすべての財産と引き換え


親権をとったそうです



だから


あの日帰宅したら

家からは電話家具車2台ともなくなり

保険証も切られ養育費も慰謝料もなし


当時の母の月給8万円

母一人こども二人

立て直すことになりました


その時の硬貨も

父の写真も

もう何もありません


続きは

母の再婚
妹の誕生
そして新しい家庭は…

【怠け者が愛される方法②】へ

#大塚麻那美