あの日、私は高校生でした






部活をとっとと切り上げ帰宅




その頃気に入っていたラジオを聞きながら
部屋で本を読んでいました


2段ベッドの上を使っていた私は
小刻みな揺れで
「あぁ、また地震か。」
とのんきにとらえていました


突如として揺れは変わり
激しく突き動かすような揺れへと

ラジオは切り替わり緊迫した声に


ガラス小物は倒れ
ラジオのアンテナが揺れに耐えられず折れました


ただ事ではない
最初の揺れがP波でいまのがS波なら
尋常じゃないことが起きた


意外にも冷静に居間へ降り

NHKをつけて家族の帰りを待ちました


地震などの災害時は弟のかよう小学校から
電話で迎えを要請されるはずでした


待てどくらせど電話は来ず
母も帰ってきません


テレビはどのチャンネルも地震特番


炎をあげるお台場
鳴り止まない地震速報

父からお台場が燃えてる
今から帰る

と電話があり
地方の親戚からも電話が


部活の面々とは連絡がとれました


母はのんきにパートから帰って来て
弟は授業をすべてやってから学校が解散しました



そして家族揃って恐ろしい津波をみました




あんなにも、あんなにも簡単におしながされるものかと

走っていた車があっという間に津波に飲まれていく



海岸線があんなにも引いている
押し寄せてくる



小学生の頃行った岩手の宮古
シートピアなぁどという
海洋深層水の施設がありました

そこの脇の岸壁で父とはじめての釣りをした思いでの場所


あっという間になぁどの屋根近くまで水が押し寄せていました






父が帰ってきたのは翌日でした

部室の壁は割れあまもりする有り様


部活をしていたら、と考えると
ゾッとします



あの日から5年。


「もう5年」
「まだ5年」


私にはどちらかはわかりません。



もう5年もたったのに仮設なのか、

まだ5年だから新しい計画をたて、
地面を作っているのか。


震災から大分たった雪が降る頃、
父は家族を宮城につれていきました。


2階だけが残った家、
スクラップを待つ車の山。
その中に救急車もありました。

そのとき見たのはなにもない原っぱ。

高速を降りたらもう原っぱなんです。


つまり津波はそれを越え、
町を跡形もなく消してしまった。



簡単に、東北を助けたいとは言えませんが
東北の皆さんを応援する何かをしたい。


方法があっているかはわかりませんが、
東北のものを買ったり、食べたりするようにしています。




死を乗り越えるのは難しいけれど、
前を向いたとき、道が開けるように。



一日も早く、東北に笑顔と活気が戻りますように。