Short Drama『告白』
『劇団真怪魚〜2023年度研究生募集』
★達真空手のFacebookページはこちらから
『劇団真怪魚〜2023年度研究生募集』
★達真空手のFacebookページはこちらから
5年間の沈黙を破り、劇団真怪魚ついに最新作の公演決定!
2024年5月1日(水)・2日(木)
調布市グリーンホール 小ホール
開場18時 開演18時半 (予定)
〜劇団真怪魚 最大のスケールで描く
時空を超えるミステリアスな物語〜
タイトル『 』
・・現在、極秘で進行中のため公開まで待て!!
☆旗揚げ公演から15周年を迎える劇団真怪魚は、コロナ禍を含む約5年間舞台公演を控えて参りました。
その間、実験的に短編映画に取り組むなど将来の映画制作に向けた研究を行なってきました。
最新作の舞台作品は、後に映画制作に向けた準備とも言えます。
この新しい舞台作品は、執筆に二年を要しました。劇団真怪魚の作品の中でも、最大のスケールで描くミステリアスかつ時空を超えるファンタジー作品となります。
そして新たなヒーローが誕生します。
期待を膨らませて頂くために、タイトルをはじめ、あらすじなどの公開をもう少しお待ちください。
〜劇団真怪魚 広報部〜
「記事がよかったら、バナークリックご協力お願いします!」
『劇団真怪魚〜2023年度研究生募集』
★達真空手のFacebookページはこちらから
※ネタバレを含みます※
※長文となりますのでご了承ください※
何かに成ろうとするあまり自分の足元を見失ったり身の丈を超えて頑張ってしまう事はよくあるのですが、この作品の中に流れている時間や自然描写や、登場人物の在り方やセリフが、未来の何処かにあると錯覚しているまだ見ぬ自分ではなく「いまこの瞬間」の自分を見つめる事の大切さと自分自身を縛り付けている思考や感情から自由に成り自在に変化する真に自由な自分でいる事の大切さを諭してくれているようでした。
冒頭の江口洋介扮する西濱湖峰のセリフはその伏線でしたが、最終的に巨匠 篠田湖山の生き様によって語らせるように持っていく演出は、作品を観終えたのち振り返って思い出してみると良く作り込まれていると感嘆します。
「人は何かになろうと思うのではなくて、何者かに変わっていくのかも知れない」
湖峰のこの哲学的なセリフを聞いて如何にも分かるようで分からないような曖昧な雰囲気に呑まれつつその真意を確かめるように物語を観ていく内に分かってきた事は、与えられた環境の中で自分の為せる100%を投じて必死に生きる事で初めて開かれる思い掛けない風景と言うものが現れる、その事を言っているのだという事でした。
それは必然性とも言い換えられるのかも知れませんが、様々な人との縁が織りなされて作り上げられる自分であり、成ろうと思って成れるものではなく、必要とされる事によって押し出される自分ではないかと思います。
僕自身を振り返ってみれば、今でこそ先生などと呼ばれたりはしますが、しかし初めから先生に成ろうと思って今の仕事を始めたのではなかった事を思い出しました。必然がこの道に誘い、そこに自分自身の興味が一致して、その興味に誘われるままに四苦八苦している内にいつの間にか今の場所に立っていたのです。
そして先生と呼ばれる自分自身を受け入れる事ができた時、自然に、と言うのか必然的にと言うのか、僕は先生になっていたのだと思います。
そして更に、先生である事を自覚するからこそそこに責任が生まれその道を更に極める為の選択をしていく様になる。それはこの映画のタイトルになっている「線は僕を描く」という事に通じているように思います。"線"とは人の縁や必然性を指していて、それによって僕という人物が描かれてきたという意味です。
しかしまた、湖山の孫である千瑛の境遇も自分には分かります。環境が与えられていても立ち往生してしまったり、別の道を探したり、道に迷ったり、道を見失ったりする事は何度もあったからです。それでも心の奥にある羅針盤はいつも同じ方向を示していたように思います。その羅針盤の事を人は恐らく魂と呼ぶのでしょう。
ただ、魂というものは方向性を示しはしても、深度を提示してくれる事はありません。もしも魂がここからここまでやれば良いという様に明確な範囲(深度)をも示してくれるのなら、人はそこまで迷わないのではないかと思います。そこに落とし穴があり、門の前に立つだけの場合、扉を開く場合、門をくぐる場合、その先に進む場合などのように深まりに差が出てくると思います。
この作品の中で道の途中で立ち止まった千瑛の背中を押したものは青山の存在でしたが、何が具体的に千瑛を揺り動かしたのかを振り返ってみると、震災の被害に遭った青山の実家で青山の帰宅を待っていた一輪の椿の花の姿に込められた家族(妹)の命ではなかったでしょうか。その命は青山だけでなく千瑛の内面深くに押し込められた命に対する感性をも呼び起こし共感を生んだのではないかと思います。
千瑛が絵を志すようになった切っ掛けは祖父の湖山であることは推測に容易いですし、千瑛の命に対する感性もまた湖山譲りだっただろうと思います。ですから千瑛にとって万物の生は絵を描くモチベーションであり絵を描く事に対する興味の源になっていたはずです。
然るに、千瑛の魂は今生において絵を描く事を望んでおり、青山との出逢いはその深度を深める為の大きな切っ掛けになったのだろうと思います。そして勿論、青山を弟子にした湖山には千瑛の迷いが分かっており、そこから彼女が変化して成長する為に青山が必要である事も分かっていたに違いありません。
もしも千瑛が青山を拒んで前に進もうとしなかったら、そこには変化はなく、そして成長もなかったでしょうが、千瑛は素直な心で青山を認めて受け入れる事ができました。この部分は何となくスルーしてしまいそうですが、千瑛が墨絵教室で青山が描く線を見て微かに驚くシーンはこの作品の一つの重要なポイントだと思いました。千瑛に素直な心がなかったら彼女の成長はなかっただろうと思います。
千瑛の持つ素直な心と変化を受け入れる力は祖父譲りであり、更に身近な存在である先輩の湖峰の影響もあったと思います。彼らの生き方は作品冒頭の湖峰のセリフに示されていました。自然の中で逆らう事なく流れに身を任せる生き方こそ、人が何者かに変わっていくという言葉の真意ではないかと思いました。湖山の最後の作品がまさにその象徴だった訳です。
この作品全体の中を流れている自然観と時間の感覚は、どこか懐かしい感じがして、例えば以前に観た『SPIRIT』(ジェット・リー主演、ロニー・ユー監督)でも描かれていたものと似ていると思いました。『SPIRIT』では片田舎の美しい田園風景を美しい映像として収めていてそこで人々と交流する中で養われる力が武術の基礎になっているのだと感じたものですが、『線は、僕を描く』で描かれている自然観もまた武術に通じる世界観があり、作者は恐らくその事を伝えたかったのではないかと思います。
空手の技にもその人の在り様がそのまま出ると感じるようになったのは最近ですが、墨絵もまた同じなのだと思います。僕はこの作品を観ながら自分の空手の事や施術(技)の事を考えたのですが、僕自身の在り方がそのまま表現されるという事は否定できません。変化を恐れていては青山や千瑛の様に前に進む事はできないのだと改めて考えさせられました。
最後に作品の総評ですが、僕自身が役者としての立場から観ると脇役の役者さんの演技が少し臭く見えたり、演出の間の撮り方に違和感を覚える事が何度かあったものの、心にジーンと余韻が残る大変素晴らしい作品だったと思います。その余韻は翌日まで残っていました。
色々な意味で感動する映画はたくさんありますが、どうせ観るのなら心に響くような、余韻が後を引くような映画を観た方が後々になっても観て良かったと思えたりしますが、『線は、僕を描く』は間違いなくそういう映画だと思います。
☆『線は、僕を描く』公式サイト
https://senboku-movie.jp/sp/index.html
河辺林太郎
令和4年11月
『劇団真怪魚〜2022年度研究生募集』
★劇団のFacebookページはこちらから
★達真空手のFacebookページはこちらから