真田幸村(信繁)のブログ
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徳川15代将軍 データファイル

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1代 徳川家康



三河岡崎城に生まれ、幼少期は今川家の人質



今川義元滅亡後は織田信長と同盟



信長死後は秀吉と対立するがのち和睦し五大老として江戸に入府



秀吉死後、関ヶ原で大勝して江戸幕府を開く



将軍職を秀忠に譲ったのちも実権を握り



元和元(1615)年に豊臣氏を滅ぼし、名実ともに天下を統一



 



2代 徳川秀忠



三男として出生



家康の長男・信康は自刃



次男・秀康は結城家を継いだため、後継者としての地位を築く



関ヶ原に遅参するという大失態により



一時家康の不興を買うが、家康の将軍就任2年後



将軍位を譲られる



豊臣氏が滅び、父である家康が亡くなると



酒井忠世・土井利勝らを主軸として幕藩体制の骨組みを確立した



 



3代 徳川家光 



秀忠の次男として出生したが



長男が早世したため実質的な嫡男として育つ



将軍継嗣にあたっては忠長との抗争があったが



乳母の春日の局の手腕により将軍位に就く



秀忠の代に続き、酒井忠世・土井利勝らの補佐を受けて



幕府の政治機構を整え、諸法度・参勤交代などを定めたほか



島原の乱ののちに鎖国に踏み切る



 



4代 徳川家綱



家光38歳の時の待望の男子として出生



11歳で将軍に就任した際、由井正雪の慶安事件が起こる



政治は保科正之・井伊直孝らの人材が幕閣を固め



それゆえに政治的関心を失い、なんでも「左様せい」と



言うようになったので「左様せい様」とあだ名された



生来病弱で子がなく、死の床で綱吉を養子にし

将軍を継がしめた



 



5代 徳川綱吉



家光の4男



上野館林領主から兄家綱の養子となり将軍職を継ぐ



はじめ堀田正俊を重んじて政務に努めたほか、儒教に傾倒



正俊の死後は実権を側用人の柳沢吉保にゆだねた



「生類憐れみの令」は貞享4(1687)年に発令されたのち



その死まで人々を苦しめた



赤穂浪士の討ち入りは、泰平な元禄時代の一大事件として



世を驚かせた



 



6代 徳川家宣



甲府藩主徳川綱重の嫡子



将軍綱吉は、甥の綱豊を疎んで紀伊綱教に嫁いだ鶴姫に



男児出生の望みを託したが、鶴姫の死によって断念



綱豊を養子に迎えて次期将軍とした



綱豊は江戸城に入り、家宣と名を改めた



48歳で将軍に就任し、即座に生類憐れみの令を廃止



新井白石・間部詮房を登用して政治改革に意欲的に臨んだが



在位わずか3年で病没した



 



7代  徳川家継



六代将軍家宣の4男



家宣が急死したため、家継はわずか4歳にして将軍職を継いだ



よって行政の実権は側近の新井白石や間部詮房の手に握られた



白石は、貨幣の信用回復をはかって、金銀貨を改鋳したり



金銀の国外流出を防ぐために長崎貿易制限令を発するなど



経済政策に取り組んだが効果が上がらず



家継が8歳で没すると、吉宗によって罷免された



 



8代 徳川吉宗



紀伊徳川光貞の3男徳川御三家の紀伊家から出た初めての将軍



倹約令の発布、通貨の統一、貿易の縮小などの経済政策をはじめ





庶民の意見を聞くための目安箱、江戸の町の火事を防ぐ



火消しの設置など、改革は多方面に及んだ



30年かけた改革の成果により、政治の流れは変わり



徳川幕府中興の祖といわれた




 



9代 徳川家重



吉宗の長男



吉宗が努力して緊縮した網紀は家重の代にはまた著しく弛緩した



一度廃止された側用人の復活もその一例



病弱で言語障害のある言葉を解するという



ただそれだけのことで大岡忠光は側用人として寵遇された



家重は偉大な父の政治遺産にすがり



辛うじて将軍の権威を保つのみであった



 



10代 徳川家冶



家重の長男



父の遺言もあって家冶は田沼意次を重用し



幕府政治の運営を委ねた



意次は、問屋・株仲間の育成、外国貿易の奨励・貨幣の増鋳など



新しい政策を打ち出した



しかし、天明の大飢饉によって、農村は打撃を受け



幕府の財政は極端に悪化した



しかも賄賂の横行が盛んになり、幕府は腐敗していた



 



11代 徳川家斉



家斉は家冶の養子となり将軍に就任



吉宗の治世を理想とする政治を目指した



老中松平定信は家斉を輔け



民生の安定と幕府の権威復興のために



寛政の改革を行った



この松平が失脚すると、家斉の放漫政治となり、幕府は乱れた



また家斉は大奥での遊楽に耽り、16腹に54人の子女を生ませた



 



12代 徳川家慶



家斉の次男



将軍職についた家慶が実際に幕府の実権を握るには



大御所と称して君臨する家斉の死を待たねばならなかった



名実とともに将軍となった家慶は



水野忠邦を老中首座とし、天保改革を行う



しかし上知令の失敗は将軍の実力の衰退を明らかにし



欧米諸国の開国への圧力が増したその時、家慶は病没する



 



13代 徳川家定



12代将軍家慶の四男として出生



家慶の27人の子はことごとく早世し



成人したのは家定だけであった



家定は家慶が没すると30歳で将軍に就任する



しかし、家定は生来病弱で暗愚な面が目立ち



政務全般は阿部正弘と水戸斉昭に委ねられた



家定には子が生まれず、幕府内及び雄藩の間で



継嗣抗争が起こり、家定はその渦中で35年の生涯を閉じた



 



14代  徳川家茂



紀州徳川家11代藩主斉順の長子として出生



斉順の弟斉彊を経て13代藩主となる



将軍継嗣をめぐり水戸などが推す一橋慶喜と対立し



大老の井伊直弼の擁立により将軍に就任する



井伊が暗殺されると、幕藩体制の維持のため



孝明天皇皇妹の和宮を迎え、3度上洛して公武合体説を推進した



しかし、第2長州征伐の際、大阪城で急死した



享年21歳



 



15代 徳川慶喜



水戸藩主徳川斉昭の第7子として出生



のち一橋家に入り家督を相続



14代将軍継嗣問題では将軍候補に擁立されるが



慶喜自身はこれを固辞した



井伊直弼の死後、将軍家茂の後見職となり



家茂が死ぬと将軍に就任



慶喜は幕府の建て直しを構想するが



討幕運動の中、慶応3年10月14日大政奉還



徳川幕府は滅ぶ



 











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