…僕の名前?
僕は恐る恐る聞き返した。自分が急に小さくなったような気がした。ロックキーパーは、
…そう。もう潮時なんだ。君は下りていって、水門を最期まで開けないといけないよ、ロックオープナ-。
ロックオープナ-。彼は僕をそう呼んだ。
ロックオープナ-、初めてそう呼ばれたとき、世界は急激に明るくなった。
部屋は隅々まで光に満ち、自分の今いる場所から、彼のいるドアの間までの、床板の一枚一枚、壁石の微妙な陰影、そして天井の梁のたわみ具合までが。
そしてたぶんドアの外の世界も。
すべての繋がりが直観的に見えた気がした。
僕の回りの、不可解で茫漠として混乱を極めていた世界の全てが、あっという間に全てあるべきところに納まった気がした。
僕は初めて秩序の何たるかを知り、光さえどこからか射し込んだ気がした。
そうだ、そのとき、僕の世界は再構成されたのだ。
じゃあ、それなら、ロックキーパーは…。
…でも、君は、そうしたら…。
…僕は、出て行く。
ロックキーパーは、目を閉じ、微笑んで、首を傾げ、それから目を開け、小声で何かいった。そして印ばかり、手を振って出ていった。
僕は呆然とそれをただ見ていて、それから慌てて階段を下りた。彼はどこにもいなかった。僕は外へ出た。大声で彼の名を叫んだ。
しかし風が、例の「新しい」においを僕に叩きくけるばかりで、彼の姿はどこにもなかった。
僕はただ確かめたかったのだ。
あのとき僕には、彼が「楽しかったよ」といったように聞こえた、それが聞き間違えでなかったことを。
『沼地のある森を抜けて』より。☆
梨木香歩さん。☆
ロックキーパーとロックオープナ-とは、謂わば微生物たちの世界の話となります。
とある事情を抱えた沼地。
人の目からみたら視界で把握できるほどの面積であったとしても、無性生殖、謂わば性別を持たない微生物の視野からみると時空間を越えるほどの膨大な宇宙的空間。
偶数でしか発展しない微生物たちの中で、このロックキーパーとロックオープナ-は、異端のひとりぼっち。ひとりぼっちだからこその大切な任務の場所の管理をしています。
正確には、気の遠くなるほどの時間キープしていた水門番に新しい異端児がやってきます。
それでキーパーは崩壊と誕生のタイミングであると悟るわけです。黙って。
潮時である…と。
異端児のひとりもの、正確には、なぜ?という疑問を持つから異端、いや進化?の片鱗を持っているとも言えるこの二人は、初めて味わう、分裂した仲間とではない感情のやり取りの幸せを味わいます。
でも、潮時がきたのです。
新しい時代はもう押し寄せてきています。
古きは新しきに勇気を持って水門を開けろと伝えます。
名前のなかった存在に自己重要感の洪水を呼び覚ますような『ロックオープナ-』と命名します。
新しい時代を開けよ。と。
そしてそれはキーパーの消滅さえ意味します。
崩壊と誕生の僅かな重なりの時を過ごした魂と魂の響き。☆
二人の勇気を促すものは『楽しかったよ』という煌めくような記憶です。
私たち、まさに今、ロックキーパーとロックオープナ-のお別れの瞬間に生きているような気がします。☆