私が特殊学級の学校現場を拝見したのは、
1957年、『婦人公論』の連載で、見学させていただいた、東京都目黒区の中延小学校であった。
ここは○○学級と先生の名のついたクラス分け。
そしてその学校に通っている子はIQ50~70。
その頃、東京都のこどもは、小、中学校の児童生徒130万人の内の2%が知恵の遅れた子、つまり2万6000人。
その中で特殊学級に通っている子は2300人でありました。
学校にきて楽しく遊ぶ、人と交わる、そういうことで授業は行われていました。
教師も「何をどう教えればいいか、わかりません」と答えて下さいました。
その時私は、
IQ75~50が精神薄弱
IQ50~25までが愚鈍
IQ20以下が白痴
と記された活字を忘れることはできません。
今、考えると、それから1962年に土地探しをし、
そして1967年に静岡に土地が決定したその時から、
後戻りできない教育と福祉の道を出発してしまったのです。
そして、1968年、12人の子どもたちを迎えての障害を持つ子の養護施設として(肢体不自由のその法はなく)開園いたしました。
1968年4月6日。
「なぜ、なんとかホームとか、なんとか家とかつけないの」
と何人にも聞かれ、私は
「だって、学びの園なのよ」
と返事をしていました。
最初からその子にふさわしい教育、当然うけるべき愛、そしていろいろ持っている病気を治療できる。
そんなことをおもいつめて1968年4月に開園しました。
私は、開園式に集まった12人の子どもたちに逢ったはじめての日、
この子たちを、私、全責任持つのかと、
急にこわくなり、一瞬逃げ出そうかと思いましたが、
ひとりのとても体の小さいお子さんのお母さんにいわれた言葉に目が覚めました。
「この子は、肉はきらい、魚もきらい、お芋ばっかりだったので、大きくならないのです」
とそのお母さんは言われました。
家が貧しすぎる農家の子でした。
肉は魚が買えなくてもこの子のせいじゃない。
大きくならないのは病気のせいじゃないと思いました。
開園式の食事に、牛肉のいっぱい入ったカレーライスをつくってもらいました。
口の中にいれてあげたら、
大きく口を開けて、食べてくれ、
にっこり笑ってくれました。
私は来賓で見えたお母さんに、
「この子、お肉食べたよ」と泣きながら言ってしまい、
そのあと、キツイことを言ったなと、反省しました。
その子は丈夫になって普通校に通えるようになりました。
今、どうしているかナと思います。
『まり子のねむの木45年』より。
宮城まり子さん。。