「人間は、たんぱく質でできた機械である」と聞いたら、どう思うだろうか?

 

「まあ、何て無粋な!」と顔をしかめる人も、多いかもしれない。

この考えを遡れば、18世紀の思想家ド・ラ・メトリが著した「人間機械論」にたどりつく。

若き日に、この考え方にふれた時、けっこう乱暴な・・・と思いつつも、なぜか心惹かれるものを感じたのだった。

 

若い頃、分子生物学が確立され、生命観が大きく変わろうとしていた。J.モノー著「偶然と必然」が、世界的に大きな話題となり、一読して、大きな衝撃を受けたことを覚えている。

 

その内容をたどると、遺伝子の本体となる部分は、DNA(デオキシリボ核酸)とそれに協力するRNA(リボ核酸)のメカニズムで説明できること。そしてDNA(デオキシリボ核酸)は、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という、たった4個の塩基の組み合わせで構成されることが解明されたのである。

すべての生物の遺伝情報は、これら4個の塩基がアルファベットの文字のように組み合わされて、設計されている。関与する、すべてのメカニズムとプロセスは、物理・化学の言語で記述できる機械的なものであり、神秘的な要素が入る余地はない。

 

ド・ラ・メトリの時代から、二百年あまりが過ぎて、現代科学の力により、「人間機械論」は、完全に蘇った。「人間は、タンパク質でできた機械である」だけでなく、「驚くほど高度かつ緻密に設計された機械である」という修正が付け加えられた上で・・・。

さらに、この視点は、すべての生物にも、適用される。

 

(人間を物質的存在と見なし、脳を含め、その「機能」を解明する見方が主流となった。とはいえ、いまだに抵抗する人々は、少なくない。)

 

わたしは、人間といえども、物理的状態の複合と考え、脳を含めた筋肉・骨格・内臓等の構造、組成、機能も、物理学と化学の言語で記述可能という立場を取る。そして、化学の命題はことごとく、物理学の命題に還元される。人間は、物理学によって、説明可能な対象であり、その神秘さは、やがて、すべて解消される。

おそらく、人間の「意識」は、コンピュータの内部状態になぞらえて、理解できる。「心」の問題さえも、「愛」「憎しみ」「恐怖」・・・といったものも含めて、機械の挙動を分析するように、物理学の言語で、すべて説明できる日が来る。

 

                    *

 

「心身問題」(Mind-Body Problem)というと、かたくなってしまうが、「わたし」という意識と(意識を持たない)物質の間に横たわる関係と溝、これをどう説明するのかという哲学的難問である。この問題は、R.デカルトに淵源をもつのであるが、若い頃の哲学科の教室でも、講義があったり、しばしば議論されることがあった。最近では、脳科学を研究された経歴をもつ茂木健一郎さんが、「クオリア」という近年はやりの論法を持ち出して、この問題に関連する著書をいくつか出している。(*)

 

いわゆる脳科学が著しく発達してきたおかげで、かつて哲学者の専売特許だった「認識論」といった領域も、自然科学の領域の問題として、科学的な方法で探求されるようになった。わたしたちが「見たり、聞いたり、嗅いだり、触れたり・・・する」という感覚世界も、その分析の対象となりつつある。この「見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり・・・」というM.ポンティ風に言えば、「生きられる世界」そのものが、実は、そう素朴・単純なものではないことが、明らかにされてきている。

 

わたしたちが「そうあるもの」と信じている(感覚)体験とは、大脳が、全身から得られる感覚情報を取捨選択して、再構成していることが、わかってきた。わたしたちは、ありのままの世界を見ていないのである。(わたしたちは、ありのままの世界を知ることはできない!)

 

かつては、わたしたちが感覚を通じて感じている世界が、そのまま「ありのままの世界」であるという素朴な信仰があった。J.ロックからD.ヒュームにいたるイギリス経験論のよって立つ立場であったといってもよい。だが、この信仰は、いまや完全に崩れ去った。

わたしたちは、感覚を通じて「ありのままの世界」を知ることはない。わたしたちは、全身の感覚を通じて得られた情報を大脳が加工処理した、その「加工された世界」を知るだけなのである。大脳が、どの情報を取捨し、どの情報をどんな風に、どの程度まで、加工したかは、わからないままである。ひょっとしたら、私たちは、体よく、大脳に騙され続けているのかもしれない。

 

すべては、大脳が見る夢である!

 

この文学的表現は、二十一世紀の今日、大きな意味を持っている。

わたしたちが日頃の感覚を通して、知っている(と思っている)世界は、必ずしも「実在する世界」と同じではないかもしれない。そもそも、私たち「人間」が、「実在する世界そのもの」を認識できるかどうかは、かなり悲観的、疑わしくなってきているのである。

 

やがて、認知にかかわるメカニズムだけでなく、「愛する」とか「憎む」といった情動面でのメカニズムも、きれいさっぱりと解明される日がやってくるかもしれない。いや、意外と早いだろう。「脳」は、古代から関心を集めてやまない「宇宙」とともに、現代科学の大きな関心の的である。最後に残った大きな「謎」のひとつと言ってよいかもしれない。だが、やがて解明される日が来る。その時、「人間」は、終わるのかもしれない。

 

(「人間」という存在は、物質でできているのであり、一種の生物機械であることは、もはや疑い得ない。すべての機能は、物理学で解明できる。しかし、いまだに、この世で「唯一の、わたし」の世界に固執するひとが多いということも、事実である。)

 

                   **

 

「変わらぬ愛」というものが、はたして存在するかどうかは、わたしには、わからない。

ただ、「タンパク質でできた(精密な)機械」である人間にとって

「愛すること」に執着する強い一面があることは、古くから知られており

たぶん、個体が滅びても、遺伝子を残すことによって

「種」を維持・増加させていこうとするメカニズムの一環として説明され得るのだろう。

 

だが、ひとつの「個体」にしか過ぎない「わたし」にとって

自分が滅びる「死」の問題とならんで

この問題は、大きい。

(主観的な問題に過ぎないが・・・おそらく、すべてのひとに・・・、

 いや、ひとりひとりにあてはまる重大な「主観的な問題!)

 

ゴータマ・シッダルタは、「煩悩」のひとつとして退けたと伝えられている

が、この問題は、やはり、とてつもなく大きい問題なのである。

 

避けられない「死」という問題がなければ

人間は、「詩」というものを書かなかったような気がする。

 

避けられない「死」という問題、

捨てきれない「愛」という問題がなければ

ひとは、「文学」というものを語らないような気がする。

 

「愛」、それは、いわば物質である人間の「もの悲しい弱み」。

 

いつか滅びる「わたし」とめぐりあう「あなた」がかなでる「愛」は

不条理な世界に残響(こだま)する叫びである。

このことに、変りはない。

 

 

夏の夕暮れ、鴨川のほとりで見た

子猫をだきしめる男の姿に

この「弱み」を卒業できぬ凡夫の姿が重なった。

人間は、愛さずにはいられない

人間は、愛されることを望まずにはいられない

年老いて、なおこの「弱み」から、脱しきれないでいる

として、何の罪があろうか?

 

 

仏陀は、「苦しみの原因となる執着は、捨てなさい」と説かれたが

たぶん、この「もの悲しい弱み」を抱いたまま

物質でできた人間存在であることを受け入れ

ひっそり滅んでいく道を選ぼうと

いまは、そう考えている。

 

たどりついた、文末での最後のメッセージとは、

「変わらぬ(不変の)愛」とは、滅びゆくわたしたちの「祈り」である。

それを信じて、一生をかける者がいる限り、「不変の愛」は、世界のどこかで生き続けるにちがいない。

 

 

ご精読、ありがとうございました。

 

 

  (*)・・・NHKブックス 「脳内現象」 <私>は、いかに創られるか

      茂木健一郎   2004  など

 

  参考文献: 「偶然と必然」  現代生物学の思想的な問いかけ

         ジャック・モノー 著

         渡辺格・村上光彦 共訳    みすず書房 1972