これ木曜日夜です、昼あれ食べてお腹すいてない状態でやや不安だったが、
小ラーメン 野菜まし ニンニク半分
ブタ左側が端豚厚さ4cmくらい?かなりきつい、やばい(・_・;)
麺の盛りも相変わらず多めのブレみたいな・・・
ブタ半分残す撃沈、謝って退店、しかしうまい、来週もいかねば(・_・;)
平治の乱 ご存知の通り最初の武家政権を確立させた内乱、局地戦である。
保元の乱までの武家の力関係であるが、北面武士(朝廷などの警護役の武士)最大勢力
は桓武平氏の実質嫡流の平清盛の一族(実質というのは、源氏も同様であるが、平清盛や
源為義らは桓武平氏、清和源氏のそれぞれ亜流であったが、事実上軍事力等で主流となった
為)が武家としては最大級勢力、それに次ぐ勢力が清和源氏実質嫡流源為義の家系であった。
源氏側は畿内より遠い南関東などでは平氏を凌駕する傾向もあったが、保元の乱では親子で
割れ勢力が伸びず、別系統の源三位頼政(以仁王と挙兵で宇治川で敗れる人です)なども
割れており、保元の乱以降平氏との実力差は開いていた。
さらに平治の乱のきっかけは、院近臣間の内訌であったが源義朝は藤原忠道(だったよね、調べるの
めんどい)の臣下で手持ちの少数の兵で、清盛が熊野詣で中に敵方を討ち、手勢は源氏方より格段に
大きい(常備しているだけで清盛側は500~1000 源義朝は50~100程度かな?)清盛が京都にもどり
圧勝した、というものです。
清盛は当時最大の武力保持者ではあったものの、院内部の争いからは距離を置き、平治の乱で
唯一の武力保持者に近い形になり実権を握っていったのでしょう。
それと保元の乱以降武家が上皇や天皇を武力で拉致することが通例のようになり・・・武家勢力を
利用した公家などは結果的に権威より武力に従う形に落ちて行ったのです。
V!!






