【前回のこと。】
これは完全なる続き物ですので、前回分が読みたいという奇特な方は、記事テーマから”シリーズ「私」”で探して下さい。
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【大学へ。】
春。
某県某市某大学。
私はここへ入学した。
晴れて、一人暮らしの身だ。
学生の一人暮らしと言っても、ワンルームマンションであったので、ひもじい感じはなかった。
高校3年間は和弓、弓道部をやっていたので、大学に入っても弓道を続ける気持ちはあった。
しかし、クラブ案内的な所で、某大学の弓道部はやたらとキッチリした印象があり、
なんとなくの理由で入部をやめた。
それよりもちょっとちゃらんぽらんな雰囲気の合気道部に入った。
が。
大学の体育会系の雰囲気が肌に合わなかった私は、夏までに辞めてしまうのであった。
すると、とたんに、大学に私の居場所はなくなった。
当然だろう。
県外者で、家庭教師くらいしかバイトをしていなかった私は、プライベートで友人を作ることがなく、学内でも合気道部内でしか交友関係を持たなかったので、大学ではぼっちになったのだ。
そうなると、堕ちるのは簡単だった。
1年目の後期から授業をサボりだした。
家庭教師から帰ると、夜通しゲームをし、朝は起きれず、昼過ぎに起きては、授業を諦めて家庭教師までゲームをする。
そんな毎日になった。
サボると言っても、要領良くサボってもいなかった。
友人がいないので、「代返」もなかった。
1年目終了時の単位取得は結構ひどかったんじゃないかな。
2年目の春もそんな感じだった。
だらだらと怠惰な生活を送っていた。
そんな時、父からの電話があった。
「話がある。」
内容はこうだ。
・会社に大きな損失が出た。しかし、借金を背負ったわけではない。
・借金を負い、家族の生活がままならなくなってしまう前に、廃業しようと思う。
・今なら会社を清算できる。
父の弱気な話に、直ちに帰らなければならない、ここへは戻ってこないかもしれない、そう直感した私は、最低限の荷物を持ち、唯一の足である原付にまたがった。
そして、約250kmの道のりを10時間かけて実家に戻った。
これが、2年目の6月。ちょうど、前期試験の直前のことである。
実家に戻ってすぐ、家族会議が行われた。
私は、①全員が1箇所で生活することでコストを圧縮②働ける者は働いて今の窮状を乗り越える、以上2点を訴え、家族の合意を得た。
父も私もすぐに働く場所を見つけた。
私は、染物工場で工員補助として働き始めた。
あの田舎で時給1000円はなかなかなかった。
ご存知かもしれないが、染物工場というのはひたすらに暑いのだ。
布を染める過程で機械内の温度を140度や160度まで上げるのだ。
ましてや季節は夏。機械から出る蒸気もあって、ムンムンだ。
体力に自信はなかったし、工員の人間関係が非常に悪いことが初日にして理解できたので、長くはもたないのではないかと不安に思ったが、私にとってはここでがんばるのが一番効率がいいと感じられ、工員に仕事を聞いても教えてくれない中、工場長だけが仕事を教えてくれたので、この人に習い、一生懸命仕事を覚えた。
すると2週間ほどで、簡単な方法での染色工程であれば、工員につかずとも自力で完成させることができるまでになった。こうなると、技術系のおじさんたちは態度を変え、かわいがってくれた。仲良くなり、アドバイスをくれ、ますます仕事はやりやすくなっていった。
仕事にも慣れた8月中ごろ。
私は大学をやめて、ここのお世話になるのもいいかな、と思い始めた。
スキルは高くないが、仕事はできるようになっている。
大学に戻っても面白くもない。
ましてや、自分が大学に戻ったら、家族の生活がどうなるか・・・・・。
会社に相談してみた。
会社は、その考えを歓迎してくれたものの、「ウチで働いてくれるのであればなおのこと、大学を出て営業として働いて欲しい」とも言われた。
私は8月の終わり頃、再び家族会議を開いた。
「大学を辞めて、ここで働こうと思う。」
父と祖母は反対した。頼むから、大学は卒業してくれと。
「でも、今の我々は経済的に2重生活は耐えられないじゃないか。それをどうするのか。」
私は反論した。すると、
「家族全員で○○県に行こう。」
となった。
そして秋、実家は某県某市に引っ越した。
私は再び大学に行くことになった。
2年目前期の単位は全て落とした。後期の単位はかろうじて取り返しがつく状態。
全期モノは・・・・ダメージはひどかった。
そりゃそうだ。
前期は出席していないし、前半の試験も受けてないのだから。
済んだことを言ってもしかたがないので、真面目に通いだした。
家庭教師のバイトも再び始めた。楽なもんだった。
父は某県で新たな勤め先を見つけた。
冠婚葬祭の会社だった。
うまくやれているようだった。
弟は小学生の高学年だった。
この頃から勉強ができないお子さんになっていったような気がする。
祖母は見知らぬ地であったからか、徐々にネガティブな性格になっていった。
ご近所さんとうまくコミュニケーションがとれず、耳が悪くなっていったこともあり、被害妄想の強い人になっていった。
それでも生活は何とか回っていた。
私は大学2年から3年になろうとしていた。
(つづく)