【前回のこと。】
これは完全なる続き物ですので、前回分が読みたいという奇特な方は、記事テーマから”シリーズ「私」”で探して下さい。
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【この生活は、小学2年から小学4年の春頃まで、約2年間続いた。】
と、前回の記事で申し上げました。
正確に言うと、
この生活は、小学2年から小学4年の春頃まで、約2年間しか続かなかった。
と言ったほうがいいでしょう。
パチンコ店が2年でつぶれるなんて話、聞いたことないです。
でも、ウチでは実際に起こりました。
2年でつぶれました。
きっと、父はいろいろな人からお金を借りていたのでしょう。
すぐ、祖父が建てた、あの立派な家には住めなくなりました。
一家の拠点は、1台のオレンジ色のバンになりました。
こんな感じの車に、父、母、祖母、私、生まれたばかりの弟の5人で生活しました。
毎日、借金取りや連帯保証人から逃げる毎日です。
私には事情がよくわかりませんでした。
ただ、何かが変わったんだな、何も不満を言ってはいけないんだな、と思いました。
記憶にあるのは、岐阜県庁の駐車場に車を止めて、一晩過ごしたり、
某町立温泉施設の駐車場に車を止めて、ただただ1日時間をつぶしたり、
そんな毎日でした。
しばらくたったある夜、どうやら家財道具を取りに家に忍び込もうということになったようです。
夜の夜中に岐阜の家に車で近づきました。
辺りをうかがうようにゆっくりと近づいていったところで、複数の車のライトが光りました。
保証人たちが待ち伏せていたようです。
そこで人生初の(最後のでもありますが)カーチェイスを経験しました。
おそらくアクセルはベタ踏みなのでしょう。
うなるエンジン音。左右に振られる車体。
私は座席にしがみつくことしかできませんでしたが、
ジェットコースターか何かのようで楽しい、そんな風に感じていました。
しばらくすると、カーチェイスは終わり、父は誰かに連れて行かれました。
翌日には父は帰ってきたように記憶しています。
相変わらず、私は事情がさっぱりわかっていませんでした。
この時父は、これ以上は逃げ回れない、と判断したようです。
一家は、名古屋港に向かいました。
そして車は、1隻のフェリーへ。
2~3日後、我々は仙台という町にいました。
ここからは、あまり明確な記憶がありません。
ゆっくり、ゆっくりと、北陸を西へ南へ下っていったようです。
当時はまだ小さく、それほど有名でもなかった「芝政」に、何日も滞在していた記憶だけが少しはっきり覚えています。
(当時はほとんど芝しかなかった。)
そして、小学4年の秋。
一家は大阪にまで流れ着きました。
大阪市生野区のある金属加工工場で、一家全員お世話になることになりました。
工場の2階が寮で、一家はそこに住みました。
父は工場で、母は経理で、祖母は3階にある従業員用の保育所で働きました。
私も半年振りに小学校に行くことができました。
一家は、平穏を取り戻しました。
父はすんなり昇格し、会社でも評価されているようでした。
母も祖母もその工場ではうまくやっていました。
私もたくさん友達ができ、楽しい毎日でした。
しかし、ここでの平穏は長くは続きませんでした。
愛知県にいた、私たちの支援者の娘さんが、借金取りに我々の居場所を話してしまったこと、
そして、父の部下が会社のお金を横領した責任を取らなければならなかったこと、
2つのことが重なって、この会社を後にすることになりました。
一家はひとつ隣の区である、平野区に移り住みました。
父はパン屋の配送トラック、
母は町の高級すし屋の女中、
祖母はベビーシッターとして働いていました。
私は、新しい小学校でも新しい友達を作って楽しく暮らしました。
これが、小学6年の春の話です。
(つづく。)

