なぜいじめは被害者が悪いのか
子供には子供の世界がある。だからその世界に大人は干渉してはいけないというのは、それはこの国の人が、人間に絶望しているからなのです。それこそ200万人を虐殺したカンボジアのポルポト派が、25歳以上の国民はもう共産主義に洗脳ができないからと、虐殺をしたのと同じなのです。それこそは大人の世界に、人間に、人間の可能性に絶望しているからなのです。
それこそいじめの場合に、それは被害者にも責任があるというのは、それは犯罪のように、被害者が弱いから暴行されるのだと言っているのではないのです。そうではなく、現実の世界に絶望をした大人たちが、それこそ子供の世界に理想郷を見ているがために、それこそ自分の人間に対する絶望を子供の世界に救ってもらうがために、それこそ子供には子供の世界があると。それゆえその世界を乱したいじめの被害者のほうに、いじめの責任はあると、それゆえ問題の解決のために被害者を転校させようとするのです。
それこそなぜ大人は人間に絶望をするのでしょうか。それこそあなたはなにも絶望をしていないというのかもしれないのです。しかしなのです。それこそいじめは被害者にも責任があるということ自体が、それこそ人間に絶望をしている証拠なのです。
それこそ私は47歳になった今、このまま病気で死んで行くのならば、それこそ過去に私をいじめで苦しめた人、それ以上に、それをかばった教師に復讐をしてから死にたいと思ったこともあったのです。しかしなのです。それこそその教師たちはほとんどが、もうなくなっているはずです。それならば私はただこの社会を恨むだけの人生になってしまうのかと。その時に気がついたのです。
それこそ人生に絶望をした私も彼らと同じなのだと、それこそ彼らは私を憎んでいたのではなく、それこそ加害者を弁護したのではなく、それこそ子供の世界に自分の惨めな人生を救ってもらおうと思っていたことに気がついたのです。
だからこそなのです。それこそいじめに苦しんでいる人は、彼らに、人類はやさしく進化をしているのだと。いや、やさしくしか進化のしようがないのだということを気がつかせてほしいのです。それでこそ、彼らは大人の社会を、現実の世界に希望と勇気を抱けるのです。それでのみ、子供の世界に対する、非現実的な夢想、妄想から解放されるのです。それでのみ、いじめをこの国からなくすことが可能になるのです。
それこそ福島原子力発電所の事故にしても、一人くらい違う意見を言う人が出てもいいのに、みんな出てくる偉い先生、東大、京大、東工大の原子力関係の教授は、この事故は全く問題ない、放射能は危険ではないし、事故もすぐに終わると訴えていました、しかし事故から2カ月がたっても、回復に兆しは見えないばかりか、それこそ放射能の危険性は、世界から逆に非難されるようになったのです。それこそ旧ソ連のチェルノブイリ事故よりはましだが、アメリカの、スリーマイル島の事故よりははるかに深刻だと。
しかしこのような、現実の世界、大人の世界に絶望することが、それこそ子供の世界を過剰に神聖化するものです。それに現実に今では、47歳の私から見れば、小学生は突っ張りでも可愛く見えるものです。
しかし子供がかわいいから、いじめを認めないのではないのです。それも多少はあるのかもしれないのですが、それこそ子供がかわいいという教師に限って、自分の意見を聞かない生徒に激しい暴力をふるうものです。
だからこそなのです。それこそいじめの被害者は、それこそなぜ、被害者であるあなたをかえって教師は責めるのかを気がついてほしいのです。それこそはこの国に、人間に絶望をしているからこそ、子供の世界を理想の社会にしようと思っているのです。それゆえその理想社会では、いじめが起きてはいけないのです。それこそ純粋で、清純な子供が弱いものをいじめで苦しめることはしないと、だからそれが起きた時は、それは被害者の妄想、たわごとか、その被害者に責任があるのだと思い込むのです。
だからこそあなたは、直接彼らと闘っても仕方がないのです。それよりも、彼らになぜ子供の世界にあこがれるのかということを気がつかせてほしいのです。それこそ子供の世界が好きなのはいいことです。しかしだからといって、大人の世界、現実の世界を責めて、絶望をすることはいけないことなのです。
だからこそ彼らに、人間はやさしく進化が可能なことに、人間はやさしくしか変われないことを気がつかせてほしいのです。それは人間の哀の感情、やさしい気持というものは、人間の脳の機能だからです。それゆえその脳が進化をすることは、そしてやさしく進化することは誰にも止められないのです。それを彼らに気がつかせてほしいのです。