バングラデシュに船の墓場がある。

その墓場というのは、現役を退いた船(タンカー、商船など)を細かく解体する場所。

バングラデシュの農村部の貧困家庭の男性が、家族を故郷に残して働きに来ている。

手作業で解体している。

彼らは汚染物質にさらされ、そこは死亡事故も年に何十件と起こる過酷な現場である。

 

先日、その仕事場のドキュメンタリー「鉄の男たち チッタゴン船の墓場」というのがあるのを知った。

クルーズ好きなので、わたしの〈アンテナ〉がキャッチした。

 

このドキュメンタリーは、アジアンドキュメンタリーズというサイトで視聴できるということで、早速サブスク契約をした。

 

30分前後の作品は短編、50分以上の作品は長編に分類されている。

昨日視聴したのが「ラスト・ツーリスト」である。

旅行好きのわたしは、この作品を観ていろいろと考えさせられた。

 

絵を描く象、タイにそのような象を見ることができる場所があることは知っていた。

象たちは絵を描けるようになるまで、また、他の芸を覚えるまで、先に鋭いナイフがついた棒で叩かれて訓練されている。

それがつらくて、自分の鼻を噛んで自殺する象もいるという。

 

今年になってから、久しぶりに新江ノ島水族館に行った。

その時に、イルカのショーを観た。

観客の拍手に合わせてイルカがジャンプする様子に感動した。

イルカの水槽はとても深く、広いように見えたが、海に比べたら狭く、自由もない。

イルカたち、人間を楽しませる芸なんかしたくないだろう。

 

このドキュメンタリーを観て、動物のショーに感動してはいけないのではないか、ショーとして成立するまでの過程にも思いをはせるべきなのではないかと思った。

新江ノ島水族館で、純粋に感動したあの気持ちにはもう二度と戻れないかもしれない。

 

このドキュメンタリーでは、アジアの孤児院にボランティアに行くツアーについても語られていた。

そう、そんなツアーあるね。

ツアーなので、観光客は孤児院に短時間滞在するだけである。

その間、授業は中断させられて、観光客が喜ぶように子どもたちは歌を歌ったりする。

まったくもって、時間の搾取である。

観光客は彼らと写真を撮り、SNSにあげ、自身の意識高いところやリア充をアピールする。

 

アジアンドキュメンタリーズのサイトには合計360ほどのドキュメンタリーがあるようである。

社会問題系が多いように思う。

毎月、配信が終わるものもあれば、新しく追加されるものもある。

気の向くまま、順に観ていこうと思う。

夏の絶賛すごもり中の楽しみが増えた。

 

 

「ダンボールで作るピンホールカメラ」というワークショップに参加した。

写真家の佐藤時啓氏から直接指導を受けるワークショップだった。

佐藤氏の作品は10年以上前に東京都写真美術館で個展を見ており、とても好きな写真家である。

 

わかりやすい、気さくな説明で、楽しくダンボールのピンホールカメラを作ることができた。

それは頭にかぶるようになっていて、トレーシングペーパーに写った画像をスマホに写す。

少しボケた、レトロ感のある写真が撮れる。(スマホに保存されるので印刷もできる)

撮った写真をみんなで見せ合い、始終ワイワイと賑やかなワークショップだった。

 

今回は虫眼鏡を使ったが、参加する前までわたしは文字通り針で穴を開けたピンホールがあるカメラを作るのだと思っていた。

参加する前の段階で、ピンホールの穴でなぜ写るのかに興味をもった。(レンズなしで)

それでAIに 聞いたりしていたのだが、その中で人の目の話も出てきた。

人の目について知るための書籍として、AIは『目の誕生』を紹介してくれた。

 

約5億年前、突如として起こった現象、この現象は「カンブリア爆発」というが、この時に一斉に地球上の生物の体制が出揃った。

この時に〈目〉も誕生したという。

もし、わたしたちに目がなければ、今も泥の中や、その他のわけのわからないところでウダウダしていたかもしれない。

 

そして、ある時、それは中国人だというが、家の壁の隙間(穴)から入る光が壁に外の風景を写しだすことに気がつく。

そして時が経ち、この現象をレオナルド・ダ・ヴィンチやほかの科学者が研究し実用化を進めた。

 

と、簡単に書いたが、カメラと目はよく似ている。

違うところもあるが、光を使うというところは同じではないだろうか。

 

さて、今日のブログで一番言いたかったこと、それは、「目はすごい!」ということ。

バカっぽい言い方をしているけど、自分が生まれた時から持っている〈目〉について、今までまったく、1ミリたりとも「すごい!」と思ったことがなかった。

今回のワークショップに参加することで、目のすごさに気づき、カメラを考えた人のすごさにも気がついたのである。

 

そして、好奇心と機会。

この二つが重なった時、目が覚めるような経験をすることがあるのだと知った。

目、カメラ、光。

このどれもを専門的に知ろうと思うと、一気に難解になるだろう。

理解を深めて、すっきりしたいという思いに駆られている。

 

 

 

 

 

先日、アマプラで「ヒルマ」という映画をみた。

この映画は、ストックホルムで生まれ、抽象画の先駆者として最近注目されているヒルマ・アフ・クリントの話である。

わたしは観に行ってないが、2025年に東京国立近代美術館で彼女の大規模展覧会が開催された。

 

彼女は王立芸術アカデミーを優秀な成績で卒業後、動物の解剖図や絵本の挿絵などを描く職業画家として活動していた。

ある時、彼女は霊的な存在からメッセージを受け、「神殿のための絵画」を描き始める。

美術手帖の「ヒルマ・アフ・クリント特集」には、彼女は霊的なものに導かれて制作しているというところが扱いにくかったという記載がある。

このような理由で、当時は脚光を浴びなかったのだろう。

 

映画の中で、ヒルマが人智学を唱えていたルドルフ・シュタイナー(シュタイナー教育の人)に、自身の絵を見せるシーンがある。

彼女の絵を見たシュタイナーは、「霊的ものに導かれて描かれた作品は、作家の魂が込められていないので心に響かない、自らの創造性がない作品はアートでない」と、切り捨てる。

 

銀座のギャラリーなどで観る抽象画のグループ展。

そのような展覧会を観て思うのは、本当に多様な抽象画の表現があるということ。

作家さんひとりひとりに、何からインスピレーションを得ているのか、何を表現しているのかを聞くことは少ない。

美術手帖によると、抽象画というのは端的に言えば「見えないものを見せる」ことで、オディロン・ルドンは「芸術は目に見えるものを再現することではなく、目にみえるようにすることだ」と言っている。

 

目に見えないものとは?

抽象画のタイトルによくある『心象』。

そう、他人の心の中は見えない。

他にもあるだろうか?

例えば人体の内部、宇宙の果てなど肉眼で見えないものを描くとすると、それは想像の域を出ないように思う。

心象や概念といったものとは、また別物かもしれないが。

 

抽象画、単に色使いや構成を楽しめば良いのかも知れない。

ヒルマの作品も、彼女がどんな啓示を受けたかは横に置いて。