自閉症の兄の話。

彼の書く字は整っている。
近年は兄の直筆を見ることがないのでわからないが、少なくとも学生時代はとても丁寧に字を書いていた記憶がある。

それは、ひとえに母の努力の賜物だと思う。
私が小学校中学年くらいまで、小さなちゃぶ台を囲むように兄と母と私が座り、日々の学習に取り組んでいた。
兄は漢字の書き取りと計算ドリル、私もそれに倣う形で学校の宿題を広げる。

これを習慣化するにはそれなりに大変だったろう。


こだわりが強いことで知られる自閉症だが、逆に言えば「こだわらせたいこと」をルーティン化すれば、勝手にやるようになる。

よく言われるたとえ、歯みがきしないと気持ち悪いのと一緒というやつだ。


兄は整数の四則演算だけは計算機なみにできたので、低学年向けの単純な計算を繰り返し解かせていたようだ。

自分ですらすら解ける。

これがよかったのかもしれない。

いま思うとまさに公文方式だ。

ひらがな、カタカナ、漢字は、決まったマスに決まった数だけ書く。

この決められた枠内に書き入れる行為も、こだわりの発動次第でいい結果が導かれる成功例だと私は思う。

そのうちマスがなくても、真っ直ぐキレイな文字を書くようになっていた。


もちろん、そうなるまで母がそばについてサポートしていたことが、できるようになった要因として大きいだろう。

頑張ったごほうびはアイスクリーム。
これもルーティン。
だから実家では、春夏秋冬季節を問わず、冷凍庫には豊富に氷菓が詰まっていた。

高学年になった私は褒美目的でのちゃぶ台学習を卒業し、自室で『りぼん』の誘惑と戦いながら勉学に励むこととなったが、兄の“ごほうび習慣”は長きにわたって続いた。


話はそれるが、この習い性というのは本当に積み重ねで、毎日繰り返しているとそれがしみついて当たり前になってくるからおもしろい。


我が家では、子供が小さい頃、おやつにアイス系、おせんべい系、あめちゃん系をそれぞれ1つずつ食べていいことにしていた。種類と数を決めることで食べ過ぎを防ぐ目的があった。

アイスがチョコ菓子になったり、せんべいがポテチになったり、あめはグミやラムネを複数食べることもあったが、概ねこのルールで過ごしてきたので、子供たちは中高生になったいまも、未だにゆるーくこのルールに従っておやつを摂取している。


「最近いいあめちゃん系ないなぁ」とか普通に言うので笑ってしまう。
そんなときは、おかしのまちおかで複数仕入れてくるのがおかんの仕事。

それはさておき。
やはり習慣づけというのは親の仕事だよなぁと感じる。
今まで環境を整えることもせず、寄り添いもせず教えることもせずにきて、急に○歳になったらできるなんてことはあるわけない。

どこのご家庭とは言わないが、別に個別の子供部屋がないならないでいい。

それならリビングの一角にでも学習スペースを設けて、時間を決めて取り組めるよう、家族みんなで協力し合えばいい話。


そんなときは勉強する本人が集中できるよう、周囲の者は騒がず静かに、テレビを消して、ゲームはしない。

それくらいできるでしょう?

造作もないことよ?

そんなことも言って含められないなんて、どんだけポンコツなのよ。

育児捨てるにも程があるでしょ。


何歳になったって、教えてないことはできないよ。

集中切れてる様子ならタイマー使うとか一緒に考えてあげるとか工夫しな。

あー、これまで面倒がって適切な躾を放棄して、子供に向き合って来なかった人には難しいか。

両親揃ってこれだもんな、ホントどうしようもないわ。


苦手なことを頑張っているのだからたくさんほめてあげようよ。

そしてやることやったなら、後は自由に好きなことさせてあげたらいい。

ゲームでもポケカでも。


飴と鞭は使いようだが、それは普通一人の人間に対して使ってこその効果。

飴は長男、鞭は次男とばかりにあからさまに差別するのをリアルタイムで見せられるのも、いい加減そろそろしんどい。