駄菓子屋の入口にたたずむ、赤い頭に透明なボディ。

10円玉を2枚重ねて銀色のレバーをひねると、筐体の中でひしめくカプセルが連動し、

ガチガチと音を鳴らしながら移動する。

レバーを2回転ほどさせたあたりでカプセルが排出され、中身を確認する瞬間がお楽しみの最高潮だ。


そんな子供の夢と期待が詰まった宝箱、その名もガチャガチャ。

ガチャでもガシャポンでもなく、ガチャガチャと呼ぶところに、昭和育ちを隠しきれずにいるが、何とまぁ言い得て妙なネーミングだろうか。

「ガチャガチャする」は私のなかでれっきとした動詞として存在しており、育児を通して息子たちにも継承された。


幼少期の長男はかなりガチャガチャにはまり、夢中になっていた。

否、親のほうが夢中で子供の楽しみに乗っかっていたのかもしれない。

夫もキン消しブームど真ん中世代。

20円主流のガチャガチャが100円となり、小遣いの範疇ではなかなか満足いく回数ができなかったもどかしい思い出が後押しし、外出した先々でガチャガチャを見つけては、親子ではしゃいだものだ。


子鉄だった長男が主にはまっていたのが、カプセルプラレールとミニモータートレイン。

当時カププラが200円で、モータートレインが300円だったように記憶している。

まずは私が小銭を握らせ、好きなガチャガチャを選ばせる。
当然狙う獲物はあるのだが、

「どれが出てもアタリだよ」と言い含め、ぐずりにそなえる。約束通り、ほしい車両が出なくてもぐずりはしないのだが、シュンとした様を見ると、つい「さっきのはママから、これはパパからね」と財布の紐を緩ませるのだった。


あれは夏休みだったか年末だったか。

実家へ帰省するために東京駅へ向かい、移動中退屈しないようにと目新しい車両を手に入れようとガチャガチャしたときのこと。

忘れもしない、寝台列車のミニモータートレイン。1回回して出たのがレールセット。そして2回目もレールセット。

そんなことあるのかと愕然としている夫の姿のほうが印象に残っている。


長い長い前ふりとなったが、近年巷で使われる「親ガチャ」。

ガチャの特徴である「何が出るかわからない」ことにかけて、「子供は親を選べない」ことを悲観してそう称しているのだろう。

ネガティブ要素に傾いた、嫌な響きの造語である。

しかしながら、親を選べないことは悲観すべきことなのだろうか。遺伝や環境によってどうにも抗えないスペックもあろうが、それを肯定して生きていくこともできる。


先述のレール連発事件。

息子は、思いがけず手に入れたたくさんのレールをつなぎあわせ、その後長きにわたって楽しく遊んでいた。彼にとってレールはハズレじゃなくてアタリだったのだ。


親ガチャ失敗と人生投げ出してはもったいない。ハズレかアタリかなんて自分次第だ。

かの兄弟たちも、親なんて利用できるところは利用して、自分の人生は自分のもの、と強くしっかり歩を進めてほしい。