部屋の隅にある、小さな引き出し。

何が入っているかは、ちゃんと覚えているのに、

ずっと開けられなかった。


忘れたわけじゃない。

ただ、触れたら何かが溢れそうで、

静かにそのままにしていた。


小学校の脇に植えられていた、黄色い菜の花。

背の順で並びながら、

横目で見ていたあの景色。


風に揺れながら、

まっすぐに空を見ていた菜の花は、

まだ少し冷たい空気の中で、

ちゃんと春を待っていた。


あの頃の私は、

何を待っていたんだろう。


テーブルの傷を、そっとなぞってみる。

長い時間をかけて出来た細い線。

消そうともしなかった跡。


春の風が、ふいに頬をかすめる。

それだけで、

古い痛みが、少しだけ浮かび上がる。


痛みは、消えていなかった。

ただ、角が取れて、

丸くなって、

引き出しの奥で静かに眠っていただけ。


開ける勇気がなかったのは、

弱かったからじゃない。

ちゃんと、大事にしていたからだど思う。


思い出は、

無理に整理しなくてもいい。

開ける日が来たら、

そっと、空気に触れさせればいい。


今日、

引き出しを少しだけ開けてみた。


そこには、

菜の花の黄色みたいな、

やわらかい光が、ほんの少し残っていた。


春は、待っているものじゃなくて、

何度でも、触れ直せるものなのかもしれない。