明日の契約の準備をしました。

月初の業務報告の準備をしました。

 

それから毎日掃除をさぼり適当な生活を送っていたせいで、

床がぺたぺたするものですから雑巾がけをしました。

マジックリンを使いました。

 

 

さて、昨日のゲ〇爆破未遂事件の顛末をば。

 

この先は本当に汚い話になりますし、

ありのままをただ日記として淡々と記しますので、

今すぐブログを閉じ、永久にこのブログを開かないことをお薦めします。

死んだシジミに用事がある方は奇特ですよ。

はっきり言って。

 

 

 

 

翌朝である今朝、袋を確認したところ、

昨日よりさらに発酵が進み、

さらに袋がはちきれんばかり。

 

なんか変な音さえ聞こえてきます。

 

もうだめだ。

これはゴミには出せない。

 

 

わたくしは仕方がないので、トイレに流しました。

確実に発酵臭がします。

それも酒まんじゅうのような。

絶対に酒粕です。

酒粕とヨーグルト。それからパンも入っていますから。

確実に発酵の要素を満たしてしまったのですね。

 

 

ただトイレに流すのには難がありました。

ティッシュです。

ティッシュが入っているのでそれは流せません。

ティッシュがぺろんと顔をのぞかせる度に

袋の別の箇所に穴を開け直さねばならず、難儀しました。

 

 

 

これから夏が来ます。

発酵の季節です。

本当に、切実に、何度も同じ話で恐縮ですが、

公共下水、早よ。

どうかどうかお願いします。

このクッソ田舎にも敷設をば。

公共下水、すぐそばまでは来ているんです。

なのに我が地域はまだなのです。

歯ぎしりで歯が割れそうです。

 

 

無理をするとまた鬱で、夫に喧嘩を売ってしまうので、

午後からは一旦休息をとることにします。

 

 

今日わたくしを待っている仕事は終わりました。

急いではいけません。

これ以上抗うつ剤を増やしたくもありません。

 

わたくしに必要なのは、薬ではなく環境整備だということはわかっています。

ただそれがかなわないから薬がばかりが増えていくわけで。

 

 

 

 

今日、ふと思ったこと。

本ブログを始めるきっかけは、ただ単に日記が書きたかったからです。

ブログで日記さえ書けば、自動的に承認欲求も満たされると思っていました。

人様の前でどれだけ自分が赤裸々になれるかというところにも興味がありました。

 

できるだけ「絶対に誰にも見せたくない日記」のように書きたいと思って始めました。

そうじゃなければ意味がないと思うのです。

身もふたもなくて、

みっともなくて、

キラキラしていないものだからこそ、

読んでいる人が癒されるって、わかりますよね。

 

 

それで本日まで書いてきて思ったことは、

承認欲求なんてそんな生易しいものではないということ。

 

最初は書いているだけで満足感が得られました。

そのうちに、お知らせ欄に「いいね」が表示されるのに目が行きはじめました。

しまいには、自ら閲覧レポートを開くようになり、

自分のブログは自分にしか意味を持たないということがよくわかりました。

 

当たり前のことなのに、

どうしてがっかりする自分がいるのでしょうか。

ほんと、承認欲求って…なんていうんでしょう、呆れてしまうというのが率直な感想です。

 

 

ただ悪いことばかりではありません。

今日までは少しでも読んでいる方が読みやすいようにと、

短い文節にしたり、

長文過ぎるブログにならないように文字数を気にしたりしていたのですが、

それはやめます。

 

書きたいことを、

書きたいだけ、

書きたいように書きます。

その方がより書いている時間がわたくしらしく生きていると感じられる時間になります。

 

とはいえ昭和の文豪ではないので、

文節はなるべく短くという点は変わらず心がけますがね。

 

 

 

 

話題は変わりますが、

昨日ユーチューブで精神科医樺沢先生のチャンネルがふと目に入り、

仕事をしながらラジオ替わりに耳を傾けていたのです。

 

テーマは自己肯定感を高めるための方法。

 

結論から申し上げますと、

自分についてのネガティブ発言をしないこと。

 

これがポイントだそうです。

 

 

わたしはかわいい。

わたしは天才。

わたしはすてき。

わたしはすばらしい。

わたしは最高。

 

そういうふうに言葉に出して、自分に伝える事が大切だそうです。

 

 

本来自己肯定感というものは、

なんの裏付けがなくてもそのものをそのままに愛せることを指しているのだとわたくしは思うわけです。

 

ということは、

血道をあげてメイクアップをしたり、

人一倍努力をしたり、

道徳心の塊のようになったり、

そんな必要はないわけですよね。

 

最近そのことについては少しはわかってきました。

わたくしはいい年の中年なのですが、

まったくアーナンダなんです。

多聞であり、悟りを開くのが一番遅いお弟子さんなんです。

 

 

たとえば、

可愛くないと可愛いと思ってはいけないということはなく、

いびつなものに健気さや愛おしさ、可愛らしさや美しさを感じることってあります。

可愛いかどうかはその真贋に問わず、

自分で決めて良いということを近ごろ本当に理解し始めました。

 

 

遅すぎますが、アーナンダのような自分を愛おしく思えるのです。

近ごろは。

 

 

そしていびつな感情から摂食障害に苦しんでいる自分も、

そのいびつな様々なことに対する判定基準も、

もうそのまま握りしめて暮らそうと思うわけです。

 

過食してオロロ、を続けてもいいんです。

それを治すには、その手を縛り付けても何の解決にもならないことくらい誰しもが理解しますよ。

わたくしにもわかります。

 

 

家庭環境に問題を抱えていたこと、

メランコリックな性格で生まれてきたこと、

体力がなく生まれてきたこと、

ディスカリキュア(数学障害)があり、算数の授業は小1からお客さんだったこと、

左右盲で体育の時間にやる回れ右、右向け右、の集団行動が地獄だったこと、

小5で転校、中3夏休みに転校、肝腎なところで、あと一歩でというところで転校ばかりだったこと、

それに傷ついていたこと、

どれもこれも、ありきたりで、特殊なことではありません。

もっと辛い人生を送ってきた方がたくさんいる事くらい、

もちろん承知しています。

 

でもいいんです。

わたくしはこんな大したことないことで傷ついた。

 

傷ついていいんです。

それは自分が決めていいんです。

 

とうとう鬱になったのは、13歳ごろでした。

もう限界だったのでしょう。

疲れていました。

摂食障害に陥ったのも13歳ごろでした。

 

 

わたくしはエッセイストや小説家に憧れていました。

沢山本を読みましたし、

自分でも長編、短編、いろいろ書きました。

結局どこかに、長編を1つ投稿しました。

読まれる価値のない小説だったことはすぐに理解できましたが、

わたくしはとても満足をしています。

長編を書ききれたこと。

 

小説家やエッセイスト、俳優、芸能人、アイドル、芸人などは勝負の世界です。

保育士や看護師や介護士、接客業等といったものとは分かつものがあります。

 

成れないことは敗北を意味し、成れることは勝利を意味します。

 

わたくしは敗北をしました。

敗北は、とてもはっきりとしています。

自覚することに躊躇もありませんでした。

文才がなかっただけなのだとすぐに理解ができました。

 

 

きっとわたくしがわたくしではなかったら、

わたくしはうつ病でもなければ、摂食障害でもない人生を送っていたかもしれません。

それでも、わたくしはここにいます。