bこんにちは、まだまだリハビリ中のJohnです。退院はしましたが、まだリハビリ生活の毎日です。このブログでビートルズに関連する題材で事実に基づいたフィクションを書いています。今日もそれをお送りしますので、楽しんでください。
Brian
「彼」はいつも闘争の中にいた。悲しいことに、そしてその対戦相手はいつも身内だった。 1942年、ウィルソン家の長男としてカリフォルニアに生まれた「彼」は、父親から厳しく育てられた。兄弟は3人で弟が2人いた。「彼」の父は彼に対しては本当に厳しい父親で鉄拳制裁は日常茶飯事だった。すなわち「彼」は父には従順に育てられたのだ。 「彼」の父は兄弟をエンターティナーに育てた。そして兄弟3人に従兄弟と近所の友人でバンドを組ませた。曲は「彼」が作った。その最初から「彼ら」はヒットに恵まれた。「彼」が作った「サファー・ガール」がヒットしたのだ。マネージャー職に就いた父は有頂天になった。「彼ら」は立て続けにヒットを放ったのだ。マネージャーが有頂天になるのも当然だろう。「彼」とは、兄弟の長兄。ブライアン、そしてバンドはビーチボーイズだった。 ブライアンはバンドのクリエーターとして、キャピトル・レコードと衝突することがしばしばだった。その上に父親だ。彼も楽では無かったろう。だがキャピトルにしてみれば、作家とプロデューサー選定は本来レコード会社側の権限だったものであった。ビーチボーイズの場合、レコード会社の担当は、その両方を取り上げられた形であった。そういった訳でブライアンはキャピトルとしばしばぶつかったのである。ただしブライアンは、音楽に関しては自信があった。小さな頃からアメリカン・ポップスのエキスを吸収し、消化してきたのであった。誰にもひけは取らないつもりであった。しかしそれを破ったのは父親だった。 実はブライアンの片耳はほとんど聞こえていない。そのためにブライアンがプロデュースしたビーチボーイズの初期の曲はモノラルで制作されている。その原因を作ったのは父親であった。ブライアンの幼少時の父親の折檻によるものだった。ブライアンたちは、これまでマネージャーとして父を尊重してきたが、ブライアンの作る曲に関してに対して口汚く罵るに及んで、遂にブライアンがキレたのだ。彼は最期通牒と言える一言を言い渡した。「あんたはクビだ。」 これで納るはずだった。 しかしこれで納る父ではなかった。ビーチボーイズとよく似たバンドを組ませて彼らにぶつけて来たのである。幸いこれは大成功せずに終わった。しかし、ここで彼にとって最大のライバルが登場する。ビートルズである。同時代を生きた者にとって特に同じ歳で誕生日が近いポール・マッカートニーは気になる存在だった。 当初のビートルズの印象はとてもシンプルに見えた。『シンプルだが面白い』ブライアンの最初の印象だ。だが末の弟カールは彼らに熱狂した。自分の部屋に彼らのポスターを貼った程だ。すなわちべビーブーマーを虜にする何かをビートルズが持っていたのだろう。そしてビートルズからのインスパイアによって名作アルバム『Pet Sounds』をモノにできた。 しかし『SGT.Papper's Lonely Hearts Club Bnnd』を前にした時、ブライアンがそれに対抗すべく制作中だった『Smile』を仕上げる集中力はドラッグの摂取過多と精神的不安定により最早ブライアンから失せていた。 ブライアンには、このように戦うべき相手がたくさんいたのだ。そしてバンドの中にも・・・年上の従兄弟マイク・ラブは何ごとにつけても文句をつけてくる。こうしたたくさんの敵と戦うこととバンドのクリエーターであり続けるためブライアンの精神は過負担が掛かり精神のバランスを崩すに至る。 しかし周りによくこれだけの敵がいたものだ。もしブライアンにこれだけの負担がなく、自由な曲作りができる環境があったなら、一体どんなものを作ったことだろう。