Get BackがLet It Beになるまで | John's BOOROCKSブログ-I Love The Beatles, Fender Guitars & Movies!

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ハンドメイド・エフェクター・ブランドBOOROCKS(ブロックス)のスタッフによる、音楽(BEATLES & Fender)と映画の気ままなブログ。

まだリハビリ中のJohnです。前回Get Backセッションの話をしましたが、その時録音されたテープの話をしましょう。以前にも掲載しましたが、それをまとめてみました。


Get BackがLet It Beになるまで


ビートルズの未発表アルバムとして、最も有名な1969年の『ゲット・バック』。やがてその音源は、レコーディングから一年半後の1970年5月『レット・イット・ビー』に姿を変えて、我々の前に姿を現す。今回は、ビートルズ解散の一因ともなったと言われる、この不幸な混乱に満ちたアルバムとそのセッションの陰影部分に、光を充ててみよう。

1)『ゲット・バック』セッションの裏に潜むビートルズ瓦解の影

 ホワイト・アルバムのレコーディング終了から、わずか一ヶ月半後の1969年1月2日から同年1月31日まで、一ヶ月に亘って行われたのが、いわゆる『ゲット・バック』セッションだ。このセッションの提唱者はポールで、ホワイト・アルバムのレコーディング・セッションの反省から、四人の共同作業として新曲のライヴ・パフォーマンスを行い、それをレコーディングし、且つそれをテレビ用に撮影することがポールの計画だった。ポールの当初の意図は、バラバラになりつつあったビートルズが、それぞれの役割を均等に演じることができる、ライヴ・パフォーマンスをもう一度行うことで、バンドとして結束を固めることにあった。

 これに対してジョンとジョージが反対の意を表明。ジョンの場合は新たにオノヨーコという、恋愛の対象且つ、自身の芸術的欲求のパートナーでもある存在を得たことで、ビートルズとしての活動に興味を失いつつあったためだった。またジョージに関しては、66年以前のビートルズのようなステージングには嫌悪感を持っていた。彼はエリック・クラプトン等のアーティストとの交流の中で、自身のアーティストとしての道に覚醒しつつあり、最早アイドルとしてのビートルズには何の興味も持ち得なかったのだ。現在、ビートルズは明確にアーティストとして把握されているが、1960年代に於いて(特に66年までのツアー挙行時期まで)は完璧なトップ・アイドルであったのだ。一方、リンゴは三人の方向性が固まればそれに従うという意思を表明していたが、2月からは映画『マジック・クリスチャン』の撮影が控えているため、四人で何かを行うとしても1月末までという期限が付けられたのだ。

 ポールに説得された他の3人は、渋々ながらもその提案に参加することとなる。そんな時、『マジック・クリスチャン』の撮影が行われるトゥイッケナム・フィルム・スタジオが1月中は空いていることが判り、急遽そこでリハーサルに入ることとし、撮影クルーが編成されることになった。こうしてセッションの結末が未確定のまま撮影だけが進むという企画がスタートした。
 この『ゲット・バック』セッションの模様を収めた、映画『レット・イット・ビー』の冒頭のカットで、広い撮影スタジオに並べられていくビートルズの機材に、寒々とした感触を覚えたものだが、恐らく彼ら自身も同様だったに違いないと思われる。何故ならば、セッションに入る段階で既に四人の指向性のベクトルは、それぞれ別の方向に向かい始めており、このセッションを通じてそれが一層顕著となっていくからだった。

 一方では現実的な側面として「アップル」という事業を四人が共同で始めたことに問題が潜んでいた。何故ならば法的にアップルとは、ビートルズそのものであったからです。アップルの起源から説明しよう。
 アップルは1963年5月に設立されたビートルズ・リミテッドを起源としている。ビートルズ・リミテッドは、彼らの楽曲以外の収入のすべてをプールするために設立されたものであり、四人が均等に25%の株を所有していた。やがてビートルズの収入が天文学的な数字になるに及んで、1967年4月19日にビートルズ・リミテッドを改組し、ビートルズ&カンパニーを設立。そして1968年1月にビートルズ&カンパニーを管理する会社としてアップルが設立された。ビートルズが各自所有していたビートルズ&カンパニーの株を20%ずつアップルに売却し、メンバーはそれぞれ5%、アップルは80%を所有することになった。そしてアップルの株は、ビートルズ四人が均等に所有するという図式になったのである。

 一見すると判り難いのだが、簡潔に言えば節税対策であることは明らかだ。(もしアップルを設立していなければ、彼らは収入の90%を税金として持っていかれたと言われていることを考慮すれば、当然の帰結と言える。)しかしながら、ビートルズ&カンパニーがビートルズのパートナーシップ契約の根本であり、それにより四人はビートルズのメンバーとしての役割を果たす義務が法的にあった。そこには、メンバーの独立やバンド解散という事態は想定されていなかった。恐らくこの事実を端的に把握していたのは、現実主義者であるポールだけだっただろう。その証拠に、1970年4月に彼がビートルズ脱退宣言を公表した時に、ビートルズのパートナーシップの解消のため、ビートルズ&カンパニーの解散を求めて訴訟を起こすことになるのだ。以上のように、ビートルズとしての事業を推進しなければならないという切迫観念に近い必要性を、ポールが感じていたであろうことは想像に難くない。これらの要因が『ゲット・バック』セッションの根底に深く静かに潜みつつ
粛々と進められてた。

2)『ゲット・バック』セッションの終幕

1969年1月2日、新曲のライヴ・パフォーマンスのためという名目ながら、行方の見えないセッションが始まりまった。広く、寒い撮影スタジオでのリハーサルは、慣れないだけでなく、撮影されていることによる違和感から、メンバー間の軋轢を生じせしめる結果を招く。特に、ジョージのギター演奏に対するポールのダメ出しが重なっていき、セッション7日目に当たる1月10日、ジョージはジョンとも諍いを起こし、嫌気が差した彼はビートルズ脱退を宣言して、そのままスタジオから立ち去るという事件が起こってしまう。その場面でさえカメラが回されていた。その後ジョージ不在のまま、セッションとは名ばかりの無為な三日間が過ぎ去り、結局のところトゥイッケナム・フィルム・スタジオでは何も生み出すことができないまま、1月15日に撮影所でのセッションは幕を閉じた。その日ビートルズは、ジョージを含めて長時間のミーティングを行っている。その席上、ジョージは推進されているライヴの計画を中止し、通常のレコーディングに切り替えることを条件に、復帰を承認した。

 1969年1月22日、アップル・ビルの地下に準備中だったアップル・スタジオに場所を移して、セッションが再開された。その目的は、ライヴのためではなく、新曲のレコーディングのためのリハーサルに形を変えていたが、撮影は継続されていた。余談ですが、アップル・スタジオは1968年末には開業の予定だったが、スタジオの設計を担当させたギリシャ人、アレクシス・マルダス(通称マジック・アレックス)がとんだ食わせ者だったため全く使い物にならず、『ゲット・バック』セッションではEMIから機材を借りて急場をしのいでいる。その後アップルはジェフ・エメリックをEMIから引き抜き、彼がスタジオを一から作り直した。機能し始めたアップル・スタジオは、EMIから他にも有能な技術者を引き抜き、特にマスタリング部門では当時英国一とも言われましたが、アップルの経営責任者に座ったアレン・クラインによって潰された。

 さて、このアップル・スタジオのセッションでは、ジョージが連れてきたキーボード奏者、ビリー・プレストンがメンバー間の潤滑剤の役割を果たし、それによりスタジオ内の空気は一変した。しかしリンゴの出演する映画のクランクインが2月早々であるため、セッションのリミットは1月31日までと迫っていた。撮影の監督を請け負っていたマイケル・リンゼイ=ホッグは、クライマックスとなるはずだった観客を前にしたライヴ・パフォーマンスの代わりとなるシーンを期限内に撮らねばならなかった。マイケル・リンゼイ=ホッグは、1940年ニューヨーク生まれの映画監督で、母は女優のジェラルディン・フィッツジェラルド。彼は60年代から音楽クリップ制作を手掛け、ビートルズの「ペーパーバック・ライター」「レイン」「ヘイ・ジュード」等を監督、1968年にはローリング・ストーンズの「ロックンロール・サーカス」、1969年「レット・イット・ビー」、同年ピンクフロイドが音楽を担当した「モア」等、その後も音楽系の映画を中心に多数手掛けている。そのマイケル・リンゼイ=ホッグが提示したのは、観客の前でのコンサートの代案としてアップル・ビル屋上でのライヴ・パフォーマンスをするというものだった。その代案が決定されたのは1月26日のことで、その後紆余曲折は有りつつも、「ルーフトップ・コンサート」は無事1月30日に挙行されたのだった。
 こうして最終的に帳尻を合わせることができたように見えたのだが、このセッションがグループに与えたダメージは大きく、この一ヶ月に亘るセッションの話題は暗黙のうちにメンバー間でタブーとなっていった。そのことがこのセッションから生まれるはずだったアルバム『ゲット・バック』を最終的に幻に終わらせる結果をもたらす。

3)グリン・ジョンズの活躍

1969年1月22日から31日までの十日間は、正規のレコーディング・セッションであるため、プロデュースはジョージ・マーティンが担当したが、アップル・スタジオでのレコーディングであることを理由にEMI職員は規約に縛られ出張ができず、エンジニアにはフリーのグリン・ジョンズとアラン・パーソンズが雇われた。(グリン・ジョンズは、トゥイッケナム・フィルム・スタジオでのリハーサルにもすべて立ち会っている。)こうして数十時間に及ぶ8トラック・テープが残される。しかしこのテープはこの後、一ヶ月以上も手付かずのままの状態で放置された。これを見てもビートルズが如何にこのセッションを、忌まわしい記憶と感じていたかが判る。
 1969年3月4日、再びジョンとポールに呼ばれたグリン・ジョンズは、『ゲット・バック』セッションの膨大なテープを突然委ねられる。グリン・ジョンズは、1942年イギリス、サリー州生まれで、ミュージシャンからレコーディング・エンジニアに転向し、1967年にローリング・ストーンズの『ゼア・サタニック・マジェスティ』、68年に『ベガース・バンケット』のエンジニアとして名を挙げた。ビートルズとの関わり以後、レッド・ツェッペリン、ザ・フーなど、英国ロックの王道を手掛ける名エンジニア/プロデューサーとなっている。
ジョンとポールが彼を呼んだのは、撮影したフィルムの編集作業が進む中、さすがにビートルズ側もレコーディングしたテープを放置しておくことができなくなったのだ。条件として、フィルムのサウンド・トラック盤とする都合上、基本的にオーヴァー・ダビングを排除し、ライヴ感を持たせるように指示された。ジョンズは3月10日、早速オリンピック・スタジオでミキシング作業に入り、四日間を掛けてステレオ・ミックスを作り上げる。彼が仕上げたミックスの詳細は次の通り。(マーク・ルイソンの『ビートルズ/レコーディング・セッション』に記されたアルバム『ゲット・バック』収録曲には、録音日に明らかな間違いがある。正しくは次の記載の通り。)

グリン・ジョンズ初期ミキシング・リスト
(1) ゲット・バック(1月23日録音)
(2) ゲット・バック(1月27日録音)
(3) テディ・ボーイ(1月24日録音)
(4) トゥー・オブ・アス(1月24日録音)
(5) トゥー・オブ・アス(1月31日録音)
(6) ディグ・ア・ポニー(1月23日録音)
(7) アイヴ・ガット・ア・フィーリング #1(1月23日録音)
(8) アイヴ・ガット・ア・フィーリング #2(1月27日録音)
(9) ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(1月31日録音 #1)
(10)ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(1月31日録音 #2)
(11)レット・イット・ビー(1月26日録音)
(12)レット・イット・ビー(1月31日録音)
(13)ロッカー(1月22日の録音)
(14)セイヴ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー(1月22日録音)
(15)ドント・レット・ミー・ダウン(1月22日録音)
(16)フォー・ユー・ブルー(1月25日録音)
(17)ザ・ウォーク(1月27日録音)

(18)レディ・マドンナ(1月31日録音)
(19)ディグ・イット(1月26日録音)
(20)マギー・メイ(1月24日録音)
(21)シェイク・ラトル・アンド・ロール~カンサス・シティ~ミス・アン~ローディ・ミス・クラウディ~ブルー・スウェード・シューズ~ユー・リアリー・ガット・ア・ホールド・オン・ミー(1月26日録音)
グリン・ジョンズが、ジョンとポールに依頼されて行った『ゲット・バック』セッションのミキシング曲の詳細は次の通りで

グリン・ジョンズ初期ミキシング・リスト
(1) ゲット・バック(1月23日録音)結局未使用となったテイク。
(2) ゲット・バック(1月27日録音)LP『ゲット・バック』収録テイク。正規シングル・ヴァージョンも同じテイク。ブレイク部以降のコーダ・パートは1月28日のテイクから持ってきて編集された。また1月28日のコーダ・パートはシングルのフェイドアウトした後も長く続き、さらに最終部分を映画『レット・イット・ビー』のエンドロール・バック及び、LP『ゲット・バック』の最後のリプライズとして編集された。LP『レット・イット・ビー』に使用されたのも1月27日のテイク。
(3) テディ・ボーイ(1月24日録音)LP『ゲット・バック』収録テイク。後に『アンソロジー3』にこのテイクと1月28日録音のテイクを編集したヴァージョンが作られ収録された。
(4) トゥー・オブ・アス(1月24日録音)LP『ゲット・バック』収録テイク。同日に録音された別テイクが『アンソロジー3』に収録されている。
(5) トゥー・オブ・アス(1月31日録音)LP『レット・イット・ビー』収録テイク。(マーク・ルイソン著「レコーディング・セッション」では第12テイクと書かれているが、第11テイクの誤り。)映画『レット・イット・ビー』でもこのテイクが使われた。
(6) ディグ・ア・ポニー(1月23日録音)LP『ゲット・バック』収録テイク。
(7) アイヴ・ガット・ア・フィーリング #1(1月23日録音)LP『ゲット・バック』収録テイク。後に『アンソロジー3』に収録される。
(8) アイヴ・ガット・ア・フィーリング #2(1月27日録音)結局未発表となったテイク。
(9) ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(1月31日録音 #1)この日、完奏したのは2テイクで、この1テイク目がLP『ゲット・バック』で使用された。LP『レット・イット・ビー』も同テイクながら、オーケストラが加えられている。
(10) ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(1月31日録音 #2)同日の2テイク目は映画『レット・イット・ビー』に使用された。
(11) レット・イット・ビー(1月26日録音)正規ヴァージョンとは異なるイントロ(『アンソロジー3』に収録された1月25日のテイクと同イントロ)で始まるヴァージョン。
(12) レット・イット・ビー(1月31日録音)この日、完奏したのは2テイクで、この最初のテイクがLP『ゲット・バック』、正規シングル、LP『レット・イット・ビー』に収録された。(LP『レット・・・』では編集を加えたヴァージョン。)同日の二番目のテイクは映画『レット・イット・ビー』で使われた。二つのテイクの差異はポールの歌う歌詞が異なることだ。
(13) ロッカー(1月22日の録音)4人の短いジャム・セッションにポールがこのタイトルを付けたもの。LP『ゲット・バック』にリンク・トラックとして使われた。
(14) セイヴ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー(1月22日録音)LP『ゲット・バック』に35秒間ほどの短いリンク・トラックとして使われ、ワン・コーラスを歌うとそのまま「ドント・レット・ミー・ダウン」の歌い出し四小節に続くアレンジになっていた。
(15) ドント・レット・ミー・ダウン(1月22日録音)シングル・ヴァージョン(1月28日録音)より、ややゆっくり目のテイク。LP『ゲット・バック』収録テイク。
(16) フォー・ユー・ブルー(1月25日録音)この日、完奏した5テイクの内、LP『ゲット・バック』、LP『レット・イット・ビー』共にこの5番目のテイクが使われたが、映画『レット・・・』には4番目のテイクが使われている。
(17) ザ・ウォーク(1月27日録音)1958年のジョン・マクラクリンのナンバー。公式には未使用テイク。
(18) レディ・マドンナ(1月31日録音)フィルムの交換の間に即興的に行われた短いジャム。未使用テイク。
(19) ディグ・イット(1月26日録音)LP『ゲット・バック』、LP『レット・イット・ビー』、映画『レット・・・』共にこのテイクの抜粋が使用されている。
(20) マギー・メイ(1月24日録音)LP『ゲット・バック』、LP『レット・イット・ビー』共にこのテイクが使われている。
(21) シェイク・ラトル・アンド・ロール~カンサス・シティ~ミス・アン~ローディ・ミス・クラウディ~ブルー・スウェード・シューズ~ユー・リアリー・ガット・ア・ホールド・オン・ミー(1月26日録音)これらは、ほぼメドレーに近い形で続けて演奏されたが、映画『レット・イット・ビー』で、「ブルー・スウェード・シューズ」以外の4曲が使われている。「ブルー・スウェード・・」は『アンソロジー3』に収録された。

グリン・ジョンズの初期のミックスでは、何故か「ワン・アフター・909」が入っていないことに、奇異な観を覚えるしかしジョンズは、ミックスを始めた初日の3月10日中に、既にアルバム用の選曲とミックスをある程度整えており、それをビートルズに聴かせるため、数枚のアセテート盤を制作していた。これが最も初期の段階の『ゲット・バック』アルバムの原型とも言える。

グリン・ジョンズ版『ゲット・バック』アセテート
A面
1. ゲット・バック(1月27日録音+1月28日録音のコーダ部分)
2. ザ・ウォーク(1月27日録音)
3. レット・イット・ビー(1月26日録音)
4. テディ・ボーイ(1月24日録音)
5. トゥー・オブ・アス(1月24日録音)
B面
1. ドント・レット・ミー・ダウン(1月22日録音)
2. アイヴ・ガット・ア・フィーリング(1月23日録音)
3. ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(1月31日録音 #1)
4. フォー・ユー・ブルー(1月25日録音)
5. ディグ・ア・ポニー(1月23日録音)
6. ゲット・バック(リプライズ)(1月28日録音のコーダ部分)

以上の通り、3月初めの段階でアルバム『ゲット・バック』がほぼ完成していたことが判る選曲だ。ところがこれ以後、このアルバムに関してのビートルズ側のアクションが再び途絶える。ビートルズの『ゲット・バック』への熱意の消失が、目に見えるようだ。このプロジェクトに関して、ビートルズが重い腰を上げるのは、このアセテート完成からおよそ二ヶ月後のことだった。


i以下、来週に続く。