「やればできるのになぜやらない」なんて言われたこともありました。「そうなのかな」「そうだといいな」と思いつつ、「自分に限ってそういうことは無いだろう」と卑屈に生きてきました。

 何かに取り組んだ結果、それに納得したことなどありませんでした。畢竟それは、何かをなそうとして、それをなしえるだけの努力なんてものはやってこなかったことの証左であるのです。

 しかし、結果なんてものは、1つの大きな目的を達成できたか否かではなく、それに向かって設定した目標の積み重ねであると思うようになりました。長距離走における「あの電柱まで」戦法と同様のことです。


 最近、ずっと苦手だった英語に少し親しみを持てるようになりました。フレーズごとに読みつつ、文法・構文に沿って文を解体し、解しやすく組み立てることで、一文が3行にも4行にもなるような、長くてややこしい文にも慣れてきました。後は、どれだけ手間を省きうるのか、というところかと思います。


 一方、得意だと思っていた日本史に自信を持てなくなりました。どうやらダニング=クルーガーだったようです。

 他人からは、「君は知識が豊富だ」とか「好きなことに取り組む姿勢には感嘆せざるを得ない」とか言われてきました。先に述べた卑屈さゆえに、これを言葉通りに受け取ることができず、「嫌味のような何か」としか受け取ってきませんでした。しかし、どこかでその言葉を真に受け止め、驕っていた自分もまたそこに存在していたようです。

 それでも好きなことはやめられませんし、これに骨を埋めるつもりで過ごしてきましたので、今さら片思いを理由に膝を折る気はありません。せいぜい、できることをやるまでです。


 一体どうなのでしょうか。菲才は、結局「やればできた」のでしょうか。

 それは、過去のことですら仮定の話に過ぎず、現在・未来に関しては畢竟努力次第と言えるのでしょう。


 如何にして努力するのか。即ち、如何にして自ずと起こる不安と焦燥を無視し続けられるのか。


 蓋し、もはや盲信するしかありません。漠然と存在する不安と焦燥をして気が狂わされそうになりながらも、只管に盲信し、結果に繋がる努力をしなければなりません。或いは、他人の導きに身を委ね、全てを託すことですが、それができれば義務教育で落ちこぼれることもありませんでした。


 所謂天才・秀才が如何にしてこの課題に向き合ったのか、或いは、この課題が存在しえたのか、燕雀には到底想像もつきません。