銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。
2022年 05月 22日
インド交通事情 |
2007/10/6 |
インドは車は左である。人はオウン・リスクで好き勝手に歩いている様である。 信号の長さを、館長は二つに分類する。シンガポール型とバンコック型である。シンガポール型は、信号の変わりがめまぐるしいくらい早い。バンコック型はうんざりするほど一つの信号が長い。館長は一つの信号で1時間以上待たされた経験がある。 日本はその中間であろう。インドはその日本とバンコックの中間であろうか。だからなかなか信号が変わらず、うんざりすることが多い。最近の信号では信号が変わるまでの残りの秒数を電光掲示するものが出てきている。 長いものは180秒以上を掲示している。3分である。 インドの伝統ある大都市では、Raj時代(英国統治時代)の名残のロータリーが残っている。馬車の時代の遺物である。そこへ、百万台の自動車が毎年投入されてきた。従い、車があふれ大渋滞が発生する。ロータリーをスムースにうまく抜けるのは本当に大変である。 インドの運転の見切りがすごい。宮本武蔵はその五輪の書で見切り3寸と説いたという。相手の太刀筋から3寸離れていれば、切られないとの極意を説いたという。インドの運転は見切り1寸である。人と車、車と車、車と自転車、車と牛などがすべて1寸の見切りで動いている。 中には見切りを間違え、接触事故を起こす車もかなりの頻度で出てくる。車の表面にその戦果を物語る傷持が多い。事故の保険は自分の車は自分の保険で修理することになっていることはすでに報告した通りである。保険の更改期に保険料が上がるのを避けるため、小さな傷、いや車が動いている間は、保険求償は行わないオーナーが多く、従い傷持ちの車が多く見られるわけである。 インドでは、こんなに自動車が増えることは想定外であった。従い渋滞に対する対策ができていない。日本の様に系統式の信号システムは導入されてない感じがする。また駐車が大問題である。インドの今までの建造物では地下に駐車場を設ける考え方がなかったので、自動車は建物を囲む狭い前庭・中庭・後庭に二重三重に駐車を強いられ、そこに止められない車は、路上駐車を強いられる。路上の駐車場は、政府がテンダーにより業者を指名して、業者は駐車料金を集めながら駐車をさせている。駐車する度に、5ルピー(15円)・10ルピー(30円)と駐車料金を取られる。時間は関係ないようである。 デリーの中心部のコンノート・プレイスでは、狭い駐車場に車が2重3重に駐車させらあれ、そこから出るときには、知恵の輪を解くように手で車を動かし所定の車を道まで誘導するのが、駐車場係員のあんちゃん達の重要な仕事になったいる。同じような光景がINAマーケットでも見られる。 最近のサケットあたりのオフィス・ビルでは地下2階まで駐車場を用意するところも出てきているが、日本と違いほとんどの上級職(マネージャー以上)は、社有車で通うか自家用車を通勤に使うため、スペースが足りなくなっている。 道路にはレーン(車線)が敷かれているが、ほとんどが無視される。デリー・グルガオン間が片道4車線の高速道路が開通したが、レーンを勝手に変えながら楽しげに走っている。レーン変更のインディケーターを使っている車はほとんど見当たらない。 バス・レーンもあるようだがこれもあまり効果を発揮していないようである。バスの運転は、乱暴で傲慢である。そこのけそこのけとばかりに暴走に近い形で走り回る。バスの車体はその結果の名誉の傷で満身創痍である。 最近デリーのポリスはスピードガンを利用して、スピード違反の取り締まりを行っている。館長の車も今週その洗礼を受けた。58キロ出していたとて、18キロオーバーで切符を切れれた。チャラン(罰金)900ルピー(2700円)であった。運転手の懐からの出費は痛いであろう。 インドで一番日本と違うのは、警笛についてである。警笛は鳴らす為にある。その頻度と音の大きさは半端ではない。日系の自動車会社はインド仕様として警笛を強化していると聞く。とにかく乗っているものは、乗っている間中同じ警笛音を聞かされ続ける。口で警笛を鳴らすなと運転手に言っても、永年の習慣は治らない。マルチスズキのある日本人技師は、自分の車の警笛のコードを断線して警笛を零にしたという。不思議なことに、鳴らされた前の車や、人が日本のように食ってかかる図はない。お互い様ということか。 昔インドの国会で如何にアンバサダーが不良な車であるかと議論されたことがあったそうだが、その時の議論の一部が頭に残っている。「購入して3か月たつと、アンバサダーは警笛以外のあらゆるところから音が出るようになる。」というもので、インド人のユーモアに感心した。 もうひとつ、インドでは直進信号が赤であっても、左折は特に禁止の表示がなければ自由である。丁寧に左折自由とわざわざ表示を出している交差点もある。道路が広いのとコーナーが角ばっていないからできる技であろう。 インドで自分で車を運転する日本人は数少ない。日本大使館のスタッフとか大和やさんの成松さんとか限られている。普通の日系企業では運転を禁止しているところもあるようだ。 でも、自家用車を運転するのはインド人にとって当たり前のことで、女性のドライバーのよく見かける。サリームくんは姫トラは危険と言っていたが、これは日本と同じようである。 |
左折自由の標識 |
堂々たる片道4車線。NH8(国道8号線)グルガオンとデリー間。車線変更が頻繁に行われし、二輪車がでたらめに車線を無視して走る。 |
駐車場は、2重3重に駐車させられる。手動で必要な車を動かし知恵の輪のように外へ出す。サロージニ・ナガル・マーケットの駐車場である・・ |
まだましな感じのバスである・・ 1950年代のはじめに阿佐が谷から豊島園を往復していたバスがこんな感じであった・・ |
バスは/~来るバスも、また来るバスも、みな同じ、満身創痍の、暴走の跡(キズ)・・ |
コンノートプ・レイスの駐車の現状・・ この狭い駐車用にいかに多くの車を止めるかが、駐車係りのアンちゃんの腕であり、要求された車の出し入れも舌を巻く熟練度である・・まさに知恵の輪の技術である・・ |
ニームラナ工業団地 |
2007/10/9 |
JETROがラジャスタン州の開発公社であるRIICO( Rajasthan State Industrial Development & Investment Corporation Ltd. )とMOU(memorandum of understanding)を交わし、日本企業の誘致を行っている工業団地が、ニームラナ工業団地(Neemrana Industrial Area)である。 ニームラナ工業団地は、Phase-1, 2,が既にあり、今回Phase-3が日本企業誘致に充てられている。すでに日信ブレーキがその嚆矢となって地鎮祭を行っている。日信の工場建設は、オリンピックで名をはせた長野の北野建設が行う。 二番手が、三井化学で、11月が地鎮祭と聞く。 ニームラナ工業団地のデータの一部である。
衛星写真で日本向けの地域が確認できる。 |
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山が見える地域である。ラジャスタン州ではいろいろな石が産出する。岩山があるのである。 |
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まだ何もない所に道路建設が始まっている。工場にとっては処女地で、先代の工場からの埋蔵物の危険は全くない。 |
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山肌は背の低い灌木や草に覆われている。大木が育つほどの雨量はない。 |
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近くの村の文化的あるいは、宗教的な施設があることがあるので注意が肝心である。 |
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道路に先駆けて橋の建設が行われていた。 |
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日進ブレーキのサイトである。この時期には珍しい雨の後であったので、ぬかるんいた。 |
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麗々しく看板が・・ |
外人登録とPAN |
2007/10/10 |
インドで日本人が仕事をするときに必要と思われるのが、諸外国の例からワークパーミットという考え方である。しかし、インドではワークパーミットはない。 日本を出る前に、必要な書類を必要な所定の様式で、インド大使館あるいは領事館に提出して、Employment Visaをとり、インドに入国してから14日以内に所轄の外国人登録を扱う警察署に登録をすると、登録証を発行される(いわゆる外人登録であるが、事務所の所在地でなくて本人が住んでいる場所により登録する場所が決まる)。 このEmployment Visaが書類さえ整っていれば、東京のインド大使館で1日でとれる。外人登録も書類さえ整っていればこれまた1日でとれる。簡単といえば簡単である。 これに基付き、納税番号(PAN NO=Permanent Account Number通常10桁のアルファベットと数字からなる)を所轄の官庁から発行してもらう。これには数週間かかるが必ず出るから心配はいらない。 この登録証とPanカードがワークパーミットの代わりをする。 外人登録は、ニューデリーの事務所に通っていても、住居がグルガオンであれば、グルガオンで登録する。 館長はグルガオンに住むので、グルガオンのハルヤナ州政府のDistrict Centre にあるMini SecretariatのFRRO(Foreign Resional Rsistration Officer)のところに出頭して登録を行った。半日仕事であった。 先ず、FRROのMr.Subhshの前に出頭して、所定の書類を提出する。彼はそれをチェックして、助手のMr.yogindraに渡す。ヨギンドラさんは、それを原簿に記帳する。その原簿は一人一ページが与えられ、パスポートの詳細から、ビザの詳細、現住所などが記入され、最後に本人のサインで締めくくられる。そして、やおらパスポートに、外人登録がヨギンドラさんの手書きで記入される。これでこの部屋での作業は終わりである。 あとは、その原簿に別室(2階)にいる警察副署長(Deputy Commisioner of Police)のサインが入れば完了となるのだが、彼がいないと彼が席に戻るまで待たされる。彼のところへ、原簿を抱えたヨギンドラさんと出向くと、列を作って今っている人々を飛び越え、彼の大きな部屋荷入り込む。彼はすべてを了解していて、ヨギンドラさんの差し出す原簿にサインする。その時本人は彼の前に立つことになる。そして握手して終わりである。その間5秒くらいであろうか。これですべてこの建物での今日の仕事は終了である。11時から1時までのことであった。 おそらく明日には外人登録証が発行されるであろう。館長の場合前の時のPANがあるので、これは新たにとる必要はない。会社と住居の変更を届け出すればよい。 で、その外人登録は1年限りの有効で、一年たつを延長のお願いをする。それを提出すると、まずFRROより3か月の延長の許可を頂く。FRROは3か月の延長をした後、Home Ministry(内務省)にお伺いを立てる。内務省がご機嫌良ければ、3か月以内に9か月の延長の許可がFRROに連絡される。そうするとめでたく、都合一年の延長が出来たということになる。内務省がご機嫌悪かったり、書類が内務省の意に沿わない場合は、3か月の延長を再度言い渡されたり、Under Consideration(考慮中)という返事になったりする。 Under Conswiderationは勝手に解釈して通知が来るまで有効として暮して全く問題はない。3か月の再度の延長の場合は期日が来たら、日本に戻りまたEmpolyment Vizaの取り直しから始める羽目になりかねない。 何が決め手で、書類の不備となるのか理由の説明がないのでわからないので困る人がいる。何が原因でご機嫌が悪くなるのかも、測りかねることであり、これまた困ったことだとこぼす人もいるようだ。でも規則は規則故合法的になるように対応するしかないようである。くれぐれも不法滞在で国外追放にならないように注意が肝心である。 インドは書類の国でもある故、書類を馬鹿にしてはいけない。必かつ十分な書類を作ることに努力を傾注するに越したことはない。 |
Mini Sewcretariat ンお入り口である。チャンディガが本省故、出先のグルガオンにミニを作ったということで、車で6時間かけてチャンディガ参りするより便利になっている。 |
正面玄関である。FRROは左手の3階(日本流の4階)故、正面からは入らない。 |
前回のときは、だだっ広い倉庫の片隅に机があって、なんか外人部隊が駐留しての仮事務所みたいな感じであったが、今回は4畳半程度のガラスの小部屋が作られ、そこにFRROが鎮座して、それを取り囲み申請者とそのエイジェントがたむろしている感じになっていた。ここに映っているのはすべて申請者とそのエイジェントで、FRROのMr.Subhashは右手前のコンピューターに掛かりっきりで画面に映っていない。ガラス越しのこの一枚が限度である。なんせ警察の中である。 |
隣の事務局の部屋である。積み上げれれた書類は比較的新しい感じがする。でもあの中に入れられたらちょっと検索不可能になるのではないかと心配である。 |
ニームラナへの日系進出企業 |
2007/11/24 |
信頼すべき筋によれば、ニームラナ工業団地に進出を決めた企業は12社と言う。 そのうちの 日信ブレーキ ACI はRIICOとすでに土地のリース契約に調印して、地鎮祭を済ませている。 RIICOは前金を納入した下記の7社に土地のアロットメン・トレターを発行している。 トヨタ合成 Nippon Express 今仙 帝国ピストン Exedey IIT Corporation (縫製の検査会社) 天竺トレイディング(レストランとホテル) これから、アロットメント・レターを出す先として、次の3社が挙げられる。 ダイキン(40エーカー) 三菱化学(15エーカー) タカタ機械 その他、丸紅、C-ITOなど目白押しと言う。40社のまんざらあり得ない話ではないようである・・ |
New Industrial Complex (Majrakath) Neemranaの地図である・・ |
ラジャスタン州のフォーク芸 |
2007/12/4 |
ラジャスタン州のフォーク芸 11月30日・12月1日にラジャスタン州の州都ジャイプール行われたSurgent Rajasthan : Partner Summit(ラジャスタン州の覚醒:パートナーサミット)の夕食会が、州首相のラジェ女史の主催で、ジャイプールからファティプルシクリに向かった郊外のシソディア王女の庭園(Sisodia Rani ka Bagh)で行われた。 その時紹介されたのがラジャスタン州のフォーク芸である。気候がベスト、少し涼しいくらいの気温で、まさに王者の気分を満喫できる庭園での供宴は観光ラジャスタン州を的確に出席者にアピールしていた。観光も忘れてないでとの、ラジェ女史の巧みな演出である。 |
総勢30名の大楽団の演奏は、迫力があった。また各パートのソロ演奏もなかなかのもので、声を作らない自然のボーイソプラノにも感心した。 |
顔を見せない奥ゆかしい演出のフォークダンスである。 |
昼間の会議の司会、饗宴の司会進行も彼女がやった。高名な人であろう。ややハスキーの声と、上流階級を思わせる立ち居振る舞いも大したものであった。 |
男女共演のダンスである。踊り込みが行われていることが良くわかる。 |
頭にものを載せるラジャスタン州の風俗を取り入れたダンスは観光用としても有名である。今夜は、脇に回っていた。 |
フィナーレの場面である。まさに会場をうまく使っての全展開である。圧倒的な迫力で会った。 |
フィナーレは踊り手たちは興奮していた・・ |
少年も忘我の体で声を張り上げていた・・ |
楽器の演奏にも負けない声であった・・ |
楽団の団長である。ゴスワミト名乗っていた。日本にも行って演奏したと胸を張っていた。 |
声を出せば腹がふぇる・・たくさん食うがいい! |
会場の全貌。立派な庭である・・ |
フォーク芸を見守る招待客・・ |