江璃がバレンタインに向けたチョコレート教室を開こうと言い出したのは、新しい年を迎えてすぐの朝礼だった。
バレンタイン用のチョコレートやお菓子については、年末までにある程度決まっていて、それぞれの担当者が試作を重ねていた。
衣央はバレンタイン商品の担当ではないため、普段通りにお菓子を作っていたが、そういう形でバレンタインに関わるのも良いなと思っていた。とはいえ、まだまだ新人のようなものなので、何かお手伝いできるくらいかなと考えていると、前にいた慧と栗亜がひそひそと話を始めた。
「こんなこと急に言い出すなんて、絶対振られたからだよね?」
「前振られたときも変なこと言い出してたしな・・・・・・」
2人は江璃には聞こえないように話していたつもりだったが、聞こえてしまっていたらしく、圧のある笑顔を浮かべた江璃が2人の目の前までやって来て、「2人に任せるけど、いいよね?」と言った。
「はい」としか言えなかった2人は、首激しく上下に振る。
頷いたのを確認すると、衣央に「開店準備しましょう」と言って、半ば強引に衣央の腕を取って厨房を後にしてしまったため、残された慧と栗亜は、「おまえのせいだ」とか、「あんたのせいよ」と言い合うことしかできなかった。
・
江璃がチョコレート教室を開こうと言ってから数週間が経った。
慧と栗亜はバレンタイン商品の担当でもあるので、店が終わってからも休みの日もバタバタとしている。
そのため、仕事以外の日に慧と会えない日が続いていた衣央は、ちょっとだけ寂しく思えてきていた。
とはいえ、昨年のバレンタインから付き合い始めてから、デートらしいデートは数えられるくらいで、基本的には一緒にケーキを作ったり、敵情視察として他のケーキ屋さんに行ったり、材料を買いに行ったりといった、仕事に関わることをしていることが多かった。
それでも休みの日に私服の慧と会えるのは、何か特別感があって嬉しく思っていた。
「休みの日に試作するときも、アシスタント兼試食係として呼んでくれていたのになあ・・・・・・」
実家の自室のベッドに寝転がって、そんなことを呟いてみたが、なんだかより悲しくなってきた。
このままでは負のループ入ってしまう。
上半身を起こして首を横にぶんぶんと振り、外出着に着替えて外に出た。
気分転換のために外に出たまでは良かったが、無意識のうちにいつも慧とよく行く場所にばかり足が向く。
最終的に辿り着いたのは、いつもお菓子の材料を買いに行く製菓店だった。
そう言えばまだ慧に何を渡すか決めていなかったなと思い、材料を眺めながら、何を作ろうかと思考を巡らせる。
いくつか浮かんだレシピに必要そうな材料を、値段も見ずにぽいぽいと買い物カゴに入れていき、レジに行く。
表示された合計金額に目が飛び出そうになったが、慧のためだと自分に言い聞かせて、支払いを済ませて店を出ると、その足で家へと帰った。
平日ということもあり、まだ家には誰も帰っていない。
今のうちにと、キッチンを占拠して試作を作っていると、妹の未央が帰ってきて、一緒に試作を作ることになったのだった。
・
バレンタイン当日。
数日前の土日に、バレンタイン用のお菓子教室は無事終わり、バレンタイン用のお菓子達も完売で、江璃の機嫌もかなり良くなった。
「みんなのおかげで、バレンタインの売上は目標を達成できたどころか、かなり良かったわ!もう商品もないし、今日は早く店を閉めましょ!みんな良いバレンタインを~」
くるくる回りながらそう言うと、ささっと片付けを済ませ、出掛ける準備をして店を出て行ってしまった。
「仲直りでもしたのかな」と栗亜は呟いた後、衣央と慧に気を遣ったのか、「私もかーえろ」と言って慌てるように店を出て行った。
「急に慌てて、変なやつだな。・・・・・・さてと、俺たちも帰るか?」
「あ、あの・・・・・・、慧さん!」
「ど、どうした・・・・・・!」
「・・・・・・ちょっといいですか?」
慧の返事を聞くことなく、厨房まで慧を連れて行き、冷蔵庫から取り出したケーキを差し出す。
「衣央、それ・・・・・・」
「今年はフルーツ使ったケーキにしようと思って、イチゴのチョコタルトにしてみたんです・・・・・・」
本当はもっと凝ったケーキにする予定で、製菓店で大量に材料を買ったのだが、妹の未央と試作を作ったときに、ほとんどの材料を未央のために使ってしまい、自分の作る分がほとんどなくなってしまったのである。
追加で材料を買い込むお金の余裕がなかったため、仕方なくある材料で作れるものにしたのだ。
材料にこだわれなかった分、手間と愛情をいっぱい込めたケーキになっているはずだと、衣央は思っている。
慧に事情を言うつもりはないけれど。
「ありがとう、嬉しいよ!・・・・・・てか、ここ1ヶ月くらい仕事以外で会えなくて悪かった」
慧はケーキを受け取ってテーブルに置いてから、衣央を自分の胸へと抱き寄せた。
「仕事ですし、仕方ないですよ。・・・・・・でも、ちょっと寂しかった・・・・・・かな」
顔を慧の胸に押しつけながら呟くと、慧はよしよしと言いたげに衣央の頭を優しく撫でる。
「・・・・・・ごめんな。余裕がなかったのもあったんだけど、俺も衣央に渡したくて、家で試作してたから、内緒にしておきたかったんだ」
「え?」
慧も冷蔵庫から小さな箱を取り出し、衣央に差し出した。
「衣央が作ってくれたケーキに比べたら小さいけど、衣央が好きなフルーツ使ったボンボンショコラなんだ」
「大きさとか関係ないです!すっごく嬉しい」
衣央は受け取った箱をキラキラした目で眺めた後、箱を両手で持ったまま、その場でくるくると回って嬉しさを表現する。
慧はその様子を見ながら、満足げに頷いた。
「でさ、衣央。今日この後予定空いてるか?」
「空いてますけど、どうかしました?」
「いや、一緒に晩御飯でもどうかなって思って・・・・・・」
「良いですね!あ、でもせっかくもらったチョコ持ち運ぶのは良くないですよね・・・・・・?わたしの作ったケーキかさばるし・・・・・・」
「んー、じゃあスーパーで材料買って俺んちで作って食べるか?で、ついでにケーキとチョコも一緒に食べるとかどうだ?」
「良いですね!じゃあ、スーパー行きましょ!」
お互いに荷物をまとめると、店を閉めてスーパーへと向かった。
凝った料理でも作るかと話しながらスーパーに行ったにもかかわらず、いざスーパーに着くと、仕事終わりなこともあり、お惣菜が目に入った途端顔を見合わせて頷き、買い物カゴにお惣菜のパックをいくつか入れることとなった。
買い物を終え、慧の家に行ってから作ったものと言えば、カプレーゼだけだったが、これに関しても、トマトとモッツァレラチーズを切って並べ、バジルソースをかけるだけだったため、料理とは言い難い。
全然料理してないねと2人で笑いながら、適当にテレビ番組を見ながら晩御飯を食べ、ケーキとボンボンショコラを食べた。
「すっごく美味しいですこれ!」
「衣央が作ってくれたケーキも美味しいよ」
「良かった!」
安堵のため息をついて、衣央はもう一つもう一つと口へと運び、気付けば8つ全て食べてしまった。
「大事に食べようと思ったのに・・・・・・」
「また作ってやるからさ!」
「次は作り方も教えて欲しいです!」
「じゃあ、今度は一緒にチョコケーキとボンボンショコラ作ろうか」
「はい!」
次の約束ができて嬉しいなと思いながら、大きく頷いた。
「そういえばなんだけど、今度2連休あるだろ?」
「はい!」
「なんか予定ある?」
「特にないですけど、どうしました?」
「一緒にどっか行きたいなと思ってるんだけど、どう?」
「行きたい!」
喰い気味で、しかも砕けた言葉で返事をしてしまったことを気にして、衣央は「ごめんなさい」と軽く謝った。
「謝ることないのに・・・・・・。それに、そろそろ敬語やめないか?もう付き合って1年になるんだし」
「でも、仕事の時も出てしまいそうなので・・・・・・」
「もうみんなに付き合ってることバレてるし良くないか?・・・・・・というより、俺がなんか、距離ある感じがして寂しいから普通に話して欲しいんだ」
「・・・・・・そういうことなら頑張ります!あ・・・・・・」
「早速出てるぞ。・・・・・・まあ、ちょっとずつでいいからさ」
「わ、分かった・・・・・・」
衣央が頑張ってそう答えると、慧がよしよしと頭を撫でた。
「で、どこ行きたい?」
「せっかくの2連休だし、一緒にゆっくりできたら良いな・・・・・・」
「ゆっくりできるところか・・・・・・。あ、そうだ!この前テレビで温泉特集やってたんだけど、車で行ける距離のとこだったんだよ確か!・・・・・・温泉好き?」
「好き!」
「じゃあ、ちょっと調べとくわ!・・・・・・おっと、もうこんな時間か。今日は送ってくよ」
ちらっと掛け時計を見ると、10時を回っていた。
さすがに連絡をしていない状態では家族に心配されそうだと思い、衣央は大人しく送ってもらうことにした。
手を繋いでゆっくりと歩きながら、衣央の家へと歩いていく。
慧の家から衣央の家は、歩いて20分くらいといったところだ。
「衣央、苺好きだったよな?」
「好きだけど、どうかした?」
「まだあるか分からないけど、苺狩りできる農園があったら行けたら良いなと思ってさ」
「行けたら嬉しい!私も良いとこないか探してみるね!」
「ああ!」
そう言った話をしていると、いつの間にやら家の前まで来ていた。
「じゃあな。・・・・・寒いし家に入りな」
慧が家に入ることを勧めたため、衣央は門扉を開けて敷地内に入ると、慧が扉を閉めた。
「慧さんも寒いでしょ?・・・・・・これ、貸してあげる」
衣央は自分の首に巻いていたマフラーを、門扉ごしに慧の首に巻いた。
「明日の朝、マフラーないと寒いだろ?」
「もうひとつあるから大丈夫!風邪引かないでね?」
「ああ、おやすみ」
顔を見合わせた後、どちらからともなく唇を重ねる。
「じゃあ、また明日な!これ、ありがとう」
慧はマフラーを衣央に見せるような動きをしてから、来た道を戻っていく。
姿が見えなくなるまで見送りたかったが、風邪を引かないよう、とりあえず家の中に入り、家族に「ただいま」と「おやすみ」を言ってから自室に行った。
明日も仕事なので、ひとまず風呂と明日の準備を済ませ、ベッドに入る。
久しぶりに慧と同じ時間を過ごせた幸せを噛み締めながら、気付かぬうちに眠りの中に入っていった。
[Fin]