ご無沙汰しております
本日は変わったお話をします
興味のある方だけ
お付き合い下さい。
以前にも触れたことがありますが、
40歳過ぎにインドに行ったことがあります。
1週間ほど行ってきて、帰宅したときは
12月なのに大雪の年でした。
じつは、お釈迦さまの足跡を
たどりに行ってきたのです。
ただ、生誕の地は今はインドではなく
ネパールなのでそこだけは行って
ませんが。
たしかルンビーニというところです。

現代は、動画でも、文字でも、写真でも、
種々の方法を用いて、本人の講演等を
保存することが出来ます。
ところが、釈迦在世当時は、
文字がありませんでした。
私も、若い頃は、全国道路マップ一冊を
持参してどこへでも行ったものでしたし。
道を記憶することが凄く重要でした。
同じように、釈迦の説法を、聞き逃すまい、
忘れるまい、と、弟子たちが記憶しました。
それだけでは、弱いので、時間が経てば、
消えてしまいます。どうしたかというと、
釈迦入滅後たくさんの弟子たちが集まって、
説法の確認会議を持っていたわけです。
ですから、お経の出だしは、如是我聞
(にょぜがもん)といって、私はこのように
聞いています、と始まるのです
といっても、文字が出来るまでは、
更に記憶していたと思われます。
一字一句忘れまいと思って、
脳裏に焼き付けようとして、
賢者の話を聞くことがありますか?
なかなか、居ませんよね。
それぐらいの方だったということです
魅力的な人の周りには、人が集まります
言わずと知れず、雰囲気をかもし出すのでしょう
オーラがあるのでしょう
釈迦の時代にメディアや通信網があった
わけではないので自分で伝え(布教)歩いたわけです。
それも、半端ない距離だそうです。
空海も、龍馬も、半端なく移動したそうです。
行った先で、出会った人に話しをする。
すると、味方になってしまう。
それを、繰り返し、繰り返し行った
でも、忘れてならないのは、こんにち、
日本で仏教を聞くことが出来るのは、
お経が存在したからです
先ほどから話している釈迦の生存して
いた時代から更に、600年ぐらい後に、
教えがお経になりました。
インドの言葉、インドの文字です
(サンスクリット語)日本人が読んでも、
理解できません。どうしたかというと
翻訳した方がいるのです。
インド人と中国人の両親を持つ方がいたのです
名は鳩摩羅什(くまらじゅう)といいます。
私も実際にインドで見学してきましたけど、
ナーランダーという仏教大学があったそうです。
かなり古い時代に。
そこで、中国から来た三蔵法師が学び、
中国に帰って漢字に翻訳したとなっています
三蔵法師は一人だけではなく鳩摩羅什(くまらじゅう)や
玄奘(げんじょう)など何人かいると言われています
鳩摩羅什は法華経を翻訳し、12番の
大婆達多品は後に彼が付け足した
という説もあります。
般若心経は玄奘法師が訳したと
いわれています。
現実は西遊記のような話しではなく、
さらにひどかった、らしい。
天竺から長安へお経を持ち帰る量は
重さはトン、だったそうで馬やらくだに少しだけ
ぶら下げるレベルではない。トンだから。
そして、当時は荷物を持って旅すれば
必ず山賊に襲われる。
いくつもの小さな国を渡るとき、
敵国の兵士に攻撃される。
至難の業、ではなくお経を持ち帰った
者が居なかったのです。
玄奘が持ち帰れたのには
理由があります。
持ち帰ろうとしたのではなく、
滞在した場所で、生活した場所で、
目の前に居る住民を救うことに
専念したことです。釈迦の教えを実践した。
旅を急いで、目の前の人たちを
無視しなかったのです。
それが仏の教え、釈迦の教えと
腹をくくっていたのかもしれない。
ですから、いつ帰れる?
ではなく帰れなくても、
今が必要だから
目の前のひとを救う。
骨を埋めるつもりで。
そしたら、国王が動いたのです。
膨大な重さのお経を運ぶ手配、
国を渡るときに、相手に攻撃するな、
という約束を隣の国にお願いをする。
山賊の対策として軍隊を動員したのです。
それをまた、隣にお願いするといったように
長安に戻れたのです。
インドから中国に伝わり、
サンスクリットから漢字へそして
ニッポンへ仏教伝来とつながった。
忘れてならないのは、
命がけの意味が違うことです。
山賊と闘ったのではなく、
本当に釈迦の教えを実践したから
国王が味方になったことです
事をなすとき
味方を増やす
味方になったのは
私利私欲がないから
なってくれた
龍馬(明治維新の筋書きは彼の案)
空海(高野山の頂上に短期間で寺建立)