こんにちは

風薫るいい季節ですね

緑もだんだん深くなり

新緑(深緑)といった感じです

 

ところで

知り合いのお父さんで

今年85歳になるMさんと

昨日お会いしたときに

そう言えば、って、

思い出したことがありました

 

Mさんは、今は金沢市内に

住んでおいでますが、

ご生家は、私と同じ市内で

気屋峠という山のふもとです

 

更に、話は10年ほど前に

さかのぼります。

 

当時、ラオスに小学校を建てるという

プロジェクトがあって

と言っても、建設作業をする

わけではなくって

 

当時、小さな村の

教室が3つぐらいの平屋校舎で

300万円強で建ったんですよ

為替の関係で安かったですね

 

その資金援助を募って

実際、完成記念式に

関係者で行ってきた

ということがありました。

 

私は、田舎育ちですが、

幼少のころ

田んぼの砂利道を

兄が自転車で行くのを

走って追っかけた

ものです。

 

また、母の実家がさらに

田舎で、夏に遊びに行くと

地域にお店がないもんですから

リヤカーでアイスキャンデーを

売りに来てたんです

 

入れ物は、クーラーボックス?

ではなく

魔法瓶?でした。

高さ50cmくらいのね

 

私の実家はアイスではなく

それにご飯を入れていましたね

 

じいちゃん、ばあちゃんが

田んぼの草取りに行ったのを

兄貴と追いかけて行って、

祖父母用の水筒を全部

飲んでしまって

帰りは耕運機に乗ってきたこと

 

砂利道

小川

カエルの鳴き声

 

畑でそのまま食べたトマトが

あたたかくて、へたが青くさい

匂いだったことなど

 

小学校の校舎が不足している

ラオスの村はやはり田舎でした。

 

10年前でも農作業(田んぼ)は

牛を使ってましたね。

 

その村で

1時間だけのホームステイを

させていただきましたが

高床式の家で、

寝るときには蚊帳を使い

台所は薪のかまどでした

家族4人で

平屋で部屋は二つくらいでした

 

電気は照明用に引いてありましたし

普通に鶏を飼っており

農耕用の牛もいて

敷地内に一緒に住んでいました

 

子供も大人も

純朴、そのもので

みんな、助け合って

生きている、って感じで。

 

小学校舎が立て替えられると

村総出で、学校に集まって

お祝いをする

 

学校が一つの集合場所であり

コミュニティとなり、

参加しない家はほぼ、ない

といった感じでした

 

当時は、首都ビエンチャン空港で

荷物を忘れても、ラオスの空港に

泥棒はいなくて

本当の仏教国でした

(お隣のバンコクは手荷物を

絶対に離せませんでしたけど)

 

話はMさんに戻りますが

完成式に私と一緒に

参加しました

 

帰りの空港で

幼少の頃の思いでを

熱く

語っていただけました

 

ラオスの田園

牛、鶏、小川、

あぜ道、砂利道

藁ぶきの家

 

これらを見たとき

すぐにあの日のことを

思い出したというのです

 

Mさんの家もお百姓さんで

貧乏だったそうです

 

昔の家ですから

囲炉裏なんかがあって

煙だらけでしたから

やはり、お母さんが

喘息だったらしい

 

よく発作を起こしたらしいのですが

頻繁に医者に行けれるわけではなく

発作が起きて

ぎりぎりまでお父さんが

様子を見ていたそう

 

そして、これ以上放っておくと

やばいというぎりぎりの時点で、

お父さんが「K先生を呼んでこい」

という

 

長男のMさんが小さな丘を越えて

隣の在所のお医者さんを

連れてきた

 

子供心に

「もう少し早く呼べないのか」と

いつも思った。

 

でも、貧乏だから

どうしようもなくって

本当にやりきれなかった

と。

 

Mさんは

「このラオスの村は

私が住んでた家と、

家族に、

そのまま一瞬で戻ってしまう」

 

苦しかった

母ちゃん、

それをやらなきゃいけなかった

父ちゃんを

思い出した

 

支援をしているようで

実は

本当に大切な

何かを

教わりに行ったのかも

しれない

 

「幸せ」

という号令のもと

物だけを追いかけて

不幸になっている

日本人にとって