「検察なめんな」のニュース見て思い出したのは若い頃に同僚がちょっと重いミスをして自分もミスに関わっているかミスの張本人かと疑われて監察みたいな所に呼ばれて連れて行かれて恫喝みたいな取調べを受けて「自分がやったような気がする」と言ってしまったこと。

結局同僚の単独のミスであったことになって自分は何のお咎めも無しとなったのだけど、恫喝みたいなことをされたのに迎合して自分が自分に嘘ついてしまったのは後の自分の人生に陰射し続けている。呼ばれるまでは人間がそんなミスをすると考えたこともなかったのに、今でも実は自分はあのミスをしたのではないかという自分への疑いを拭いきれない。お咎め無しになったのだからいいでしょとは自分の中で今もならない。

学生時代の友人には「そんなバカな、やってないのにそんなこと言うわけないでしょハハッ、バカなの?」と笑われるばかりだったのだけど、言ってしまったのだ。バカと言われるのはやぶさかでないバカな行いだったが自分が滅多にいない突き抜けたバカだとは思わない。小市民みたいな人はそういう状況になるまで自分が恫喝に迎合して嘘供述するなんて思いもしないけれど、入ってしまうとそうなる人はある程度いるのでないかと思う。

多分、検察だけでなくて検察みたいなことを仕事にしている人たちは場合によっては恫喝含む暴力一歩手前の白とは言い切れないやり方もするように指導されているのだろうと思う。多分、検非違使とかハムラビ法典の時代も判決前の取調べの段階はそうだったのだろうと思う。取調べ中に「あなたは大罪人」と言われることもあるらしいし、裁判では推定無罪と言うけれど、取調べの段階では推定無罪なんて関係ないということなのでしょうな。でも取調べ自体に既に罰の要素が大いにあるように見える。それでも推定無罪無しの取調べでいいのかと思う。判決で「既に社会的な制裁も受けている」とかで減刑というのはよく見聞きするけれど、取調べ自体も制裁に相当するとは裁判官の人たちは考えないんすかね。

 

刑期を終えた後で保護司が要るというのも判決を嵩に着て社会的制裁が続くからということのように見える。出所後の生き辛さが100%社会的制裁のせいと言うつもりはないが、出所後に保護司と会い続けることになるのは判決の時点で予見しうることだと思う。


自分の父親より年上に見えた恐いことを言ってきたおじさんたちはもうお亡くなりになっているか相当衰えているだろうと思う。消えないと分かっているけど自分の記憶から消す方法はないかと思う。九州の南の方の警察の人は自分たちの方で取調べの記憶から消えて行くことができるようだが。

4年ほど前に、そういう嘘自白をしやすいことを説明するのにあからさまにされるのもアウティング同然(SOGIとは無関係)じゃないのかと思うことまでマスコミ報道に出てきて冤罪を晴らした人がいたけれど、冤罪を晴らすのに払う代償として大き過ぎるのでないかと思った。再審なので枝葉の話で弁護士は話を出す同意を取ったのだろうし、この一例だけで言うのも何だけど、それでも弁護士と裁判官のやり方にも不信感。ああいう冤罪と取調べと裁判の負担に対する犯罪被害者給付金みたいな補償ってのは出るんですかね。

自分の若い時のこと思い出すと、どんな裁判員裁判に召集されても自白とか自供が話に付いていたら無罪を主張してしまうと思う。裁判員制度が始まった頃は国民主権でも司法権の裁判官も検察も弁護士も信用して委任したいのだから勘弁してよとしか考えてなかったのだけど、年を取って昔のことをいろいろ振り返るようになると、裁判の判決までの過程というものがどうも信用できないもののような気がしてしまう。