同性で一番親密な友人を思い浮かべてアンケートに答える、たったそれだけだったのに。
親密ってなんだ。どこからどこまでが親密なのか。いわゆる一般の意味での親密だとするなら、本当に人と人は親密になれるのか。人は分かり合えるか。認め合えているのか。
分からない。分からない。分からない。
こんなことをうじうじと気にするのは、私の元来の性格か、社会学のせいか。
親密。
ゼミの共同研究のテーマでもある、親密。無定義語とか言われてる、曖昧な概念。
人は分かり合えるか。
中学生のときに好きだった晴一さんは、分かり合えないと断言して、確かにそうだと思ったし、今でも一理ある、というか全面的に肯定している。
人は分かり合えない。
なぜなら本当の意味で分かろうと思うなら、その人が誕生した瞬間から今までのすべての時間と出来事を経験しなくてはならない。そんなことは不可能だし、仮にできたって、それは他者同士の分かりあいじゃなくて、ただの自己の複製だから。
そう、でも、そこまで完璧に一部の狂いもなくわかり合う必要はもちろんない。
9割分かり合えていれば、かなりのものだろう。
9割くらいなら、なんとかなる、気がする。
出会うか、出会わないかの賭けというのはあるけれど。
でも、これは憶測だ。私もそういうことなのだ。
親密。それも、一番の。
一番の友達。ニアイコール、親友。いや、人によっては結べないかもしれないな。
親密さの順位。なにで決めるか。
完全に島宇宙化した現代の私たち。
分かり合える部分と分かり合えない部分がしっかり区別され、その部分ごとに、相応しい人格が選択されて、その部分以外とは基本的に交わらない閉じた人間関係が築かれる。
部分ごとに、それなりに、親密。親密でないとは言えないあたたかさは一応ある関係。
でも、それは、全面的な私を知った上での関係じゃない。その場で提供されるのは、一部分の話題と興味、それにマッチした私の性格のみ。
なにを持って一番にする?全面的な付き合いができる人がいるならいい。でもさっきも言ったように、島宇宙化した選択的な関係が今は主流。若者の苦しみが一般論のような形ですら語られるのが現在だ。全面的に分かり合える人がいない人が大半なのではないか。じゃあその中でなにを基準にする?音楽の話ができる人?それとも映画?いやいやバイトでお世話になっている人?幼い頃を一緒に過ごした人?親密さの判断基準が、自分の興味の優先順位であっていいのか?それでは感情論になるのではないのか。
だって、思い浮かべてみれば。ライブに行くとき、音楽のことを全く話せないバイトの人が一番親密だとは言い切れない。同窓会に行くのに、映画好きはいらない。好きなものの優先順位はくるくる変わる。好きなものが好きでなくなることもある。
もう、分からない。
ただひとつ思うのは、人間は頭が良くなりすぎた。だから傲慢にもなる。
でも人間はただの動物なんだ。どこまでいっても、結局は。
「私」に意味なんてない。生きることに、意味はない。でも、意味がないなんておおっぴらに認めてしまったら、なにもかもが終わってしまう。
頭が良くなりすぎた。発展しすぎた。そして快適さを一度つかんだら、もう戻れない。