破調と云えば俳句となる私。きっと芸術的な感覚に受入れられやすい破調なんだ。どうしてこんなことを私は想ったのだろうか…
授業中に下駄で走りまわる子がいたら、おそらくあなたも「それはダメだろ」ってお思いになるのでなかろうか。そんなあなたは健常者ですから世界中の大概はあなたを支持すると思う。わたしもあなたのその姿勢に同化したいし、理解したいし、受入れようとする。荒っぽいかも知れないが、これが私が理解する同和政策のスタンスなのです。
あなたが普通に反応する姿勢に同化して私はあなたに反応するなら、あなたに異論はない‥‥筈。ああ、同和政策って素晴らしいってあなたは私に返す。 それはいいのですが、私は私を正常と思わない。正常は完璧ってことだろうし、完璧な側に完璧でない側を同化させれば、すなわち同和政策で世の中はスムーズに流れて誰もが満足できる‥‥筈。
象には象の言葉があり、花には花の言葉があり、下駄には下駄の言葉があり、しかし、そんな言葉はダメだから私たちは健常者の言葉をつかうべきとすると同和政策‥なのかな?もしも下駄が世界を支配したら私たちは下駄語で語らなければ健常者の迷惑になる厄介者だ。私は蝶の言葉も、象の言葉も、下駄語もあっていいと思う。仮に棲み分けてもいい。
昨夜のnhk「静かでにぎやかな学校【前編】~手話で学ぶ明晴学園~」を観ながら、健常な世界にもやっと陽の光が当たりだしたと思った。下駄語で何が悪い。あなたは無意識にでも「お前は俺に合わせろ」って感覚になってらっしゃらなければ嬉しく思います。もちろんですが、「
俺に合わせろ」って感覚を俺語と思って受入れたいと私は思うのです。(゚o゚〃)