自転車、最近乗った?

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5月は「自転車月間になっているが、自転車事故をなくすとか自転車の活用を促進するなどの目的で制定されたようだ。それで今日5月22日の目標は出来るだけ多くの人が自転車と積極的に係われるようにしたいってことなのだろうが、それにしても便利で気軽に乗れて健康的で費用対効果の高い自転車であっても、乗りかたによって人命にかかわる凶器にもなる。殊に70才代以上の自転車に係わる死亡事故の高さは際立っているらしい。じっさい、皆に共通する事故原因はあるだろうが私の身を振り返ってみた時はそうとばかり言えないことに気づく。考えかたや価値観は人それぞれだけれどサイクリングの日がせっかく用意されたのだから私なりに反省しつつ考えておきたい。
 
現在の私は、価値観は個々に異なると考えているが初めから他者と私が異なっていたのではないとも思っている。例えば私と息子の価値観のちがいを観て感じたことがある。その時点での息子の価値観、それが私には素晴らしく思えたし、その息子の価値観は生まれ持ったモノだと思えた。そして生きているなかで(私の)価値観が変質したことを否定する気にならなかった。私の考え(価値観・思想)はこうして変質していくのだなあ…私は変質が悪いと思っている訳でなく、変質しないのが素晴らしいと思っている訳でもない。生きるために選択した途(≒変質)であればそれは悪い筈がなく、もしかして必要は発明(≒進化)の母と云う考えとどこかでつながっているか知れない。
 
私は教わったようにふるまう素直さに長けていると思っている。様々なことをイッパイ教わったがそれが誤っていると誰かが教えてくれたら教わったことは間違いだと私は素直に覚えて振舞うことになる。誰かが私に教えてくれて、それを別の誰かが同じように私に教えてくれて、それをまた別の誰かが私に教えて、、こういった教えに素直になれない私でない。この教えが嘘だったとか間違いだったとかいうことになると、、たとえばあなたがこのような教えに素直であれば、あなたは褒められるだろうか?罰せられるだろうか?あなたは終いに他人を信じない人になるかも知れないし、他人を受入れなくなるかもしれない。それでも私は人を信じるべきか?私は人を信じてならないか?
 
そして人を罰することを教えてくれる人もいらっしゃった。罰するのは良いことだと恐らくあなたは信じてらっしゃるでしょう?罰するのは良いことだから、それなら私を罰したい人は素晴らしい人だという理屈に納得して受入れられる筈でしょう?自転車は人を傷つける凶器になり得るし、走行違反する自転車は罰して恐れ入らせなければならないと、最近の道交法は変わってきている。分かったような分らないような教えに私は素直になるべきだし、、なにせ道交法は国の価値観だし、国の法律ですから…。私は分らないけど、国の今の価値観よりも幼稚園・小1時代の息子の価値観のほうが好きだった。なにせ50メートル競走でいっしょに走る子らとニコニコ笑いながら仲よくゴールしてたなあ。
 
サイクリングも好いなあ。スピードを競うでなし、遅れる者を罵るでなく、いっしょに仲よく走ることを目的とするサイクリング、、好いなあ。いやいや、体力がなかった私は皆についていけずに足手まといになって皆の迷惑者だったけど、、息子は元気で、だけど一着を目指そうとせず、みんなとニコニコ笑いあいながら走って、ともにゴールインして、皆に迷惑を掛けた私は困り者だけど、一着を目指さない元気なワンパク坊主は表彰台に立つことはなくても、一着を目指すことを覚えた私になるよりも、息子は持って生まれた価値観を大切に生きていってほしい気がする。いやいや、日本の価値観にはそぐわないとしても、私はそう生きる人を信じられるし、信頼できる気がする。
 
1着を目指すのが第二の本能になった私のようで、愚かな私はそのことに気づくのが遅れて、他人に歩調を合わすのが苦手で、そのことで妻に叱られることが多い。遅れる私を心配し労わる妻に対して、私が先を行くときは妻の状況に気を配ることもせずにドンドン先を行ってしまったもんだ。いやいや、そんな私のペースに合わせてくれる家族を持って、こんな私なのになんでかな…妻は私にやさしい。変でしょう?不思議でしょう?信じられないでしょう?だけど私は妻に恵まれている。だけど好い加減に大人にならなければ、どんなに出来た妻であっても終いに私を嫌うことになるかも知れない。なんか、ダラダラ書いてしまいましたけど、、仲よく過ごせるのはやっぱり好いです。( ̄▽ ̄;)