こんにちは〜ニコニコ


今日は大阪はすごく良い天気で、気温もやや高く
冬にしては過ごしやすい土曜日の昼間にお送りしておりますニコニコ


さて、ネット上では何だかんだと、
どっちが上だ下だ、優れている劣っている
などとジャッジしたがる人が溢れてるように感じますが

私が小学生時代、
たまたま新しい知識を得たりするのが好きな
好奇心旺盛な性格だったので

テストも知ってること書くだけの時間だな
くらいに思っていて

それで高得点取ったら優等生みたいに扱われる

(しかし母親は全く教育熱心ではなかったので私がテストで良い点数を取っても褒美をくれるとか褒めるとかは一切なかったという…笑)

というのが、なんか変だな?

とその頃からこの国の教育の歪さを感じ取っていたのですが


そうしたテストの点数とか偏差値だとかで知力を判断する学歴偏重社会は

考える能力だとか判断基準が単一的すぎて

あまりにも偏った見方で他人をジャッジして

他にも色々とある要素を取りこぼしまくってる人が多い

…と思っていますちょっと不満


婚活市場なんかまさにそんな感じですよね爆笑

人柄がどうより身長やら年収やらのステータスから始まる変な世界ですね。


私の亡き父親は身長160程度のちっちゃいおっさんだったんですが(こんなん書いたら怒られそう)

亡くなったのはもう10年近く前になるんですけど

真面目なドカタの職人で、個人がやってる家族経営みたいな建築会社で晩年近くまで勤め上げて

葬儀の時には仕事仲間の方々がお父さんにはお世話になったと挨拶をしに来られたりして

高学歴でもなければ高身長でも高収入でもなかったけど、幸せな生涯を送り娘達に見送られ恵まれた最期を迎えたのかなと思います

人間の価値は天に召された時に判るのかなとその時からずっと考えています


うちの家系には高学歴の人間がほとんどいないのですが、

そのおかげで、どこ大学だからとかどっちがすごいとか学歴がどうとかじゃなくて

人間そのもの、人柄を見て
対等に人間同士で会話ができる。

父を見送る時に集まった親戚の歓談の席でも、
父親が実際に取った行動やら今となっては笑い話みたいなちょっとした事件の話を中心として

誰かのことを語るときには、
相手がどういう人格だとか、どんな特性があるとか
そういったことに焦点を当てた話がほとんどだったように思います。

勝手に誰かと誰かを比較して上だの下だの優劣をつけたりしなくて良かった。

そういう点では私は恵まれた環境に生まれ育ったのだなと
今改めてありがたさを覚えました。


おかしな基準に振り回されない環境というのは最高だと思います。

変なレッテルよりも自分の目や感覚で
人そのものを見ることや

自分が心地よいと感じるもの、
自分が心から欲するものなど

濁りのない目で見たり判断できると
幸福度も高くなるんじゃないでしょうか。


ここまで読んでいただきありがとうございますニコニコ