『あるがままの一言教2』
免許皆伝、免許は自受体得なり。
皆伝は、他受の力用なりて働きなると教えるなり。
免れて許されな
ら、皆にそれを伝えよ、これが宗教の免許皆伝なり。
無知より免れて、自由と許されたら、その法を、皆と伝えて、広く伝えよと教えるなり。
これが、真実の免許皆伝なると示すなり。
ウ冠天蓋の下、元となすは是れ完なり。
完すなわち、元にして一なるに本義の完と成りゆくなり。
完に元あり。
すなわちこれ、完りにして、元めなり。
元一如大道なすはゆえに修法の完なり。
完はそのまま、元めにして、完りを教えているなり。
照は自受にして他受なり。
昭これ自受なり、烈火を加えてこれ他受なり。
ゆえに遍くこれを照らするなり。
すなわち、照一字正法の体にして、自受・他受一如の体と示さるなり。
育てるとは一と結んで写す事なり。
愛を育てると申せば、ゆえに愛を一と結んで写し合う事とは教えるなり。
これ月鏡の如くして写し育てるとは示すなり。
点を正しく知れば、因・縁・果・報がわかるなり。
点とは、占めて輝かすゆえに全てとなると教えるなり。
科学とはこれ、自然力の応用なり。
ゆえに自然真理を無視した科学など、成り立つ事は非ずなり。
悟りとは、法爾自然の当たり前に覚めてゆく事であり、迷う自分に覚めてゆく事なり。
迷っている自分より、覚めた自分と帰ってゆく、すなわち、全ての自然なる道理、当たり前の真実を知りゆく事なり。
悟りとは、覚りて解りて、悟る事なり。
自分に覚める事をおいての悟りは無いのである。
大いなる真如一なる自分を知る事こそをその始めの悟りと言うなり。
無知と破らずして真の我生まれず、無知と破るに、我広大とここに生まれるなり。
自我これを破りて、無我大我と得るは命の務めにして道と言うなり。
神社・寺社はこれ、我が一身の影なり。
法体にしてこれ影とあらわす曼荼羅なり。
理を正と知りて、神社・寺社にまいる事こそ、法にかないて正しきなり。
己が、心浄し清めるに、そこと参りて、一と汚れ祓えと言うなり。
しかるに、神社・寺社、己が一身大法の影と覚めて、本性を開けと教えるなり。
そは、自らの命と開けと示すなり。
達磨はこれ法これなり。
法にしてその体なり。
法はすなわち、その本にしてこれ禅なり。
禅法一と極むるはこれを達磨と申して教えるなり。
福笑いは神の法なり。
ダルマは達磨の法なりて、法の体とは申すなり。
ダルマに目と入れるはこれ成就とこれを示すなり。
達磨(法)成就はゆえに開眼、完成なると合わせるなり。
妻が正しい道これを見せる時、夫これに従うべし。
夫が正しい道これを見せる時、妻またこれに従うべし。
これを夫婦の修と言うなり。
法と道はまさに私によって万教とよく説かれた。
宗教の対立分断、争いの時代は終わった。
無知の自縛を解き放ちて、調和の大法こそ、ここに大きく開くと教えるなり。
我が万教を全ては悉く見聞なしてみな、真の道と悟りの大いなる智慧を得よと教えるなり。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌