『あるがままに一言教』
自らのみの悟りならば心に悟るのであり、言語をもって説く必要はない。
言語をもって説くのは他に知らしめ、その智見と悟り入らしめるためにこそ必要なのである。
しかるに言語文字とあらわすにおいては、その内性の十分の一も説くをなせぬと示すなり。
神仏の言葉を聞くに一を十と聞け。
十を百と聞け。
これを真の聞と言い、また観と言うなり。
文字を言と聞きて悟るはこれ声聞なり。
文字と観じて大明と悟るはこれ縁覚なり。
一切を大覚一義と解するはこれ仏なり。
万法・万宗はみなこれ一流で流れる。
一宗独善の法華一乗と申すればこれ、妄語となるなり。
仏法経々みな一流に流れずして正に非ず。
一流円輪と流れてこれ、正となるなり。
ゆえにみなこれ一なり。
互いに強情を張りあってもなにも生まれる事はない。
これ互いに、扉を押し合って開かぬ如くなりて、意味なき事と知る事なり。
法華・念仏ともにわからぬ者達が千年、万年強情を張り合ってもなにも生まれぬに、愚かな論争やむ事なり。
これともに理解する事こそ肝心なると知る事なり。
仏陀とは大調和法界とは言うなり。
調和はこれ普遍なり。
しかるに対立はみな、生じ滅するに、普遍にならずと知る事なり。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌