『観音経は法華にあり!』
観音普門品、これ法華にあらざるや、その観音経に種々説きて申さく、称名念仏、南無観世音菩薩と一念、念じ唱うればこれを普ねく救うと。
この観音をアヴァロキティ・シヴァラと言うなり。
この観音頭頂といただく主尊はこれ阿弥陀仏これなり。
この仏の名と示せば、観自在王仏とも示して、アヴロキティ・シヴァラ・ラ一ジャブッタとこれ言うなり。
この阿弥陀仏称名なして念仏なせば、無間地獄・無間大城と言うならば、観音普門品これいかに、この経を大妄妄言と申するならばいかにこれを証さん。
阿弥陀念仏が無間大獄の因と言うなら、観音普門品またこれと申すと同じなり。
これ法華経と申するならば、よくよくこの道理また見つめて知れと申すなり。
念仏また妙法にして一味の法たるをこそゆえに早く覚めと示すなり。
仏者一如となして手に手を取って早くひとつの道とゆく事なり。
衆生この智慧と解せぬならば、我の教えにこれと聞けとは言うなり。
観音の頭頂に阿弥陀仏と示するは、大法の甚深妙と知る事なり。
阿弥陀一乗またよく念仏者の至るところにして、全て一味の一と知る事なり。
衆生はゆえに法のとらえかたこそ正と気づけと言うなり!
仏陀とは覚者にして覚めたる人なるに、自己の覚め、自己の真理と開き至る事こそ大切なせと示すなり。
それなくして迷い暮らしてなんの成仏なりゆくなり!
法はみな真実の命と覚め、真理一実の尊き命と覚め、自らと覚し、悟る事こそを命となすと知る事なり。
全ての救いも、そこにこそ一とはなると教えるなり。
太陽の法嗣
大日 天光子
合掌