『法爾自然!』
法のままにして自然を知るを法爾自然を知ると言うなり。
これ、法の爾の一命自然を生きる事なりて、この法をして神と示せば神のまま、神爾自然なるに、これを神ながらの生と言うなり。
神ながらの自然ゆえにこれこのまま、法爾自然と言うのである。
例えばまた、イスラ一ムに言うところの、神のはからいのままの生活と言うのも神の爾、自然と生きる、法爾自然と言うのである。
神とは真理にして、真理とはすなわち、法なるがゆえとこれを教えるのである。
法爾自然とは、法の爾(まま)にして、自然とこれを示すのである。
さればその自然を知り、法を知る事である。
法を知らず、自然を知らず、真実の法爾自然はならなあのである。
法とは、例えば因縁因果にして、善因善果、悪因悪果これであり法とはまた命の道にして真理の道なるに、その法と目覚めて正道と生きるに、そこにおいてこそ真なる法爾自然の道となるなり。
すなわち、人が人を生きる事こそ法爾にして自然の生と示すのであり、されば人は人と目覚めて人を生きる事が、大切なると言うのである。
ゆえに人の道こそよくと覚めて、その自然正道をこそ法の爾に生きよと教えるのである。
法の爾、即法となせと言うなり。
されば一命もまた自然なりて、道と一つ、法と一つと知る事なり。
自然とは、真理に添って自ずからなるところにして、そのまま命を輝かす、道の道と示すのである。
さればこの自然即道にして法なるに、命をそこに生きよと教えるのである。
あるがままの本来のすがたと覚めて正しく生きれば、自然はなるのであり、法は即そのまま命と一つなるに、その法こそまた一義と知りなさいと教えるのである。
法を知らずして、自然を知らずして、本来の法爾自然のなることは解せないのである。
ゆえに人は、一切のあるべきすがたに、本来の面目を実と見る事であり、そこにこそ真なる道の成りて、法爾自然と知りゆくのである。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌
ちなみに示せば、念仏往生の法然という僧侶は、その名そのまま、法爾自然と言う意味なのである。
法の爾の自然、一切がただ念仏、阿弥陀如来と悟り、名と一つに示したのである。
一切が、ただ念仏、阿弥陀如来の世界にして命、これを示し自らの一義を悟りを教え残したのである。
これこそ念仏往生を求める者の悟りへの道である。
阿弥陀如来の横に坐して、勢至菩薩を智慧の法然と言うも、ただ念仏、法の爾の自然が阿弥陀如来の至りた悟りを教えるのである。
さらに示せば親鸞の名もまた、親を阿弥陀如来と示し、鳳凰たる阿弥陀如来の横に坐して鸞
鳳を示し親鸞と名付け、観音菩薩の化身と教えているのである。
念仏を唱え修する僧侶ならばこれ位知る事である。
ちなみに阿弥陀如来とは、弥陀仏が太陽たる大日如来の種子「阿」と一つに生まれて、阿弥陀如来と成ったのである。
法爾自然とは一切が大日如来であり阿弥陀如来であり、第一義諦の悟りを教えるのである。
一神の義もこれに尽きるのである。
私、ゆえにこの全てを釈なして広大と説けるのである。
合掌