『大いなる、禅と悟りの真実!』
形骸化した仏教に光を与えて、禅の禅たる真実を明かして、真実の仏教とその大いなる道をしめさん。
禅と座して自らの内なる真実の庫、
命の庫を開く事は真の悟りへの道である。
その道を開き、
道とであいてこそ、釈迦仏や多くの
仏達、
聖者、
菩薩達の至りた真実を知り得るのである。
仏法は単なる教学ではなく、体認の法であり、験証実得の法である。
その命の庫と入りてそこと開くれば、
眼前に光明と輝きて仏達もまた現ずるのであり、そこに展開する神秘不可思議にして偉大なるドラマ、導きはその者を戒め、鍛え、磨き、やがて大いなる開眼へといたらしめるのであり真実の歓喜へと導くのである。
その大いなる
世界と出会いて、
その真実の修法を体認せずして釈迦仏の至りた真の悟りの世界は知りえないのであり命の真実、道の真実そこにある真理実相を実得する事はできないのである。
よくその心と開き、道開けば生死を超えた大いなる命と道を自らの命で験証できるのであり、この実体験こそが真の仏法なのである。
教学、
学問では知りえぬ事実実相を知る!
その実体験
あるがゆえに、
その教学の世界もそこから光となって無量と展開できるのである。
無知にして無学、
全く仏教学問など知りえない者でも、
そこと至りて悟れば学者を超えた真実を知り、説く命と生まれゆけるのである。
禅はただ、
その道と
成道するため、
その実相世界、
命の秘密と開くため、その世界と出会い、そこに修法と磨くために坐するのであり、その中において大いなる命の展開をなして、自らで迷い自らでまた実の開眼を得るのであり、
眼のウロコが落ちるとはそこにおいての開眼であり、
そこに歓喜の涙を天と一如に味あうのが悟りの真実の世界である。
禅はただ座って心を調えるだけのものではなく、
真理の開顕であり、真理との一体であり、その悟りの世界を自らの命の上に実得して常に座して智慧と磨いてゆく!
定慧一如の完成こそが仏法禅の真実なのである。
形式だけに座るのではない!
その命を開くのであり、その内になる偉大なる秘密の扉を開いて、内と外の大いなる命、その真理と至るのである。
この真の禅を真実の仏法と忘れてしまう事は生命界の損失であり闇と沈みて光を失う如きものである。
釈迦仏が菩提樹の下で禅定と坐して道と開き入りたその真実をこそ見よ!
その神秘の教えはみなそこに展開した悟りの世界の真実なのである。
禅と仏法、
その大いなる法と、その悟りの真実のためにこの一文は示されたと知る事である!
そこと開くに広大無量の智慧を得、
真実の仏、
真の仏教をその命に得て大いなる命と至り不死と入ると教えるのである。
全てはこの命の偉大こそを知り、自らを昇華完成して光と帰れと教え示すのである。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌