生命の指向するところを知れ! | 太陽王法の会

『生命の指向するところを知れ!』  


人よ
あなた達は悪い事、悪いところを見てそれを知り、それを学び、それを心と得るのである。

そしてあなた達はまた、善い事、善いところを見てそれを知り、それを学び、それを心と得るのである。

このあなた達の営みがそのまま命の指向するところを示しているのである。

すなわち、あなた達の命はその善い事、善いところを至高するのであり、それを道としてめざして生きているのである。

悪を至向するならば、善も悪も知る必要は無いのであり、好き勝手に生きればよいのであり、また善も悪も関係ないのであるならば、そこにおいてもこれを知る必要は無いのであり、好き勝手に生きればよいからである。

人の命が善を指向するゆえにこそ、善と悪これをよく知るのであり、知る事を大切とするのである。

しかるにこれを忘れて、これと気づかず悪をなしゆくがゆえに、そこに悪果が生じて苦と生じ、そこと気づかしめられるのである。

これもまたその命が善を指向するがゆえのすがたである。

このように命はその道の指し示すところにそって働くのであり、それを忘れるから苦しみと迷いの中に落ちるのである。

善と悪を教えて知る心によって善を指向し、もし悪となしゆけばそこに悪果を生じ示し、そこにおいてもまた善を指向せしめるのである。

このように命の命としての働きを忘れるから、病み、迷い、苦となして流転するのである。

ゆえに人々よ、まずあなた達のその生命の指向するところの真実こそ知る事であり、その上でそれがこの天地全ての道、真理であると知る事であり、教えるところであると知る事である。

されば万界にその教えるところの師は満ちているのであり、教本などなくとも
この天地大自然の全てが命の教典となっている事を知れるのである。  

善悪の善、それを知る事が生命の指向するところであり、
愛憎の愛、それを知る事が生命の指向するところである。

浄、
不浄の浄、
美醜の美、
清濁の清、
浄汚の浄、
貧富の富、
正邪の正、
苦楽の楽、
これらは全てまたその生命の指向するところであり
是非の是、
正否の正、調和、
対立の調和、健康、病気の健康これらまたその生命の指向するところである。

人はこの真実を道と見て知る事である。

例えば人々よ、善を指向するから、善悪を知る必要があるのであり、悪を指向したり、善悪が関係ないのであるならば、それを知る必要は全くないのであり、全て好き勝手に生きればよいからである。

善を指向するゆえにこそ、善悪を知る命を持つのであり
そこに生きているのである。

もし悪を自らの肉体、心においてなしゆけば、その肉体に悪果を受け、心に苦しみという悪果を受けるのである。

これも善を指向せしめて示すところのすがたであり、また他に対して悪をなせばそこにおいて沢山の悪果を受け、罪ともなり、罰もまた受ける事になるのである。

これも善と指向せしめて目覚めかえさんとなす働きなのである。

その肉体において、その心において
その生活において、その行為において、全てがかくとなす事を知る事であり
このように全てを見つめて正しい命を知る事が大切である。

浄、不浄を知るのもその生命が浄らかなところを目指すゆえにそれを知りゆくのであり、不浄でも何でもよいならば、それをそれと知る事もなく、浄不浄が関係ない事であるならばそれをそれと知る必要もないのである。

しかるに不浄となすゆえに、悪臭を放ち、虫とたかり、汚れ、病むのであり、苦しみへと向かうのである。

これも浄と目指す証であり、人がその身を洗い、頭を洗い清める営みもまたそれを目指す心を示すのであり、家の汚れを掃き清めるのも、窓を磨くのも、全てそれを道と示しているのである。

命を不浄となせば、自ら苦しみ、自他を苦しみへと落とすのであり、その苦しみと生ずるのもゆえに、浄となすところの生命の指向するところなのである。

反省、
後悔、
恐怖、
嫌悪、
その心の中にもまたその働きがあるのである。

これを忘れて生きるから人は病み、迷い、苦しみへと落ちるのである。

このようにその生命の指向するところと反して生きるから、苦しみが生じるのであり、その苦しみはゆえにまたそのまま正しくその生命の指向するところへと、かえさんと働くのであり、真実の道、楽すなわち清浄自然正道の命とかえさんとなす働き、救わんとなす働きとなるのである。

抜苦与楽の働きはこのようにまた生命の上に働く事と知る事である。

真実の命を生きるとはゆえに正しく生きる事であり、その生命の指向する道に沿って一と生きる事である。

そこにおいて苦はまた滅しゆくのであり、人はこれを忘れるから自らで苦しみへと向かってしまうのである。  

悪は苦なり、
憎しみは苦なり、
不浄は苦なり、
醜は苦なり、
濁は苦なり、
汚れは苦なり、
恨みは苦なり、
貧は苦なり、
非はは苦なり、
邪は苦なり、
対立は苦なり、
病は苦なり、
闇は苦なり、
迷いは苦なり、
無知は苦なり、
等々と命たる心の上によく見つめて正しく知り、その苦しみは全てそこにおいて生命の指向するところである道として、善を示し、
愛を示し、
浄を示し、
美を示し、
清を示し、
許しを示し、
富を示し、
正を示し、
是を示し、
調和を示し、
健康を示し、
光を示し、
目覚め、
悟りを示し、
智慧を示し、
それこそ真実の楽道、正楽なると示すのである。

されば真実正道を知りて大遊大楽とゆくものは、この遊楽正心こそを実と知りゆくのである。

衆生人々はゆえに無智にして無明、闇の如く暗くして智慧の無きは苦なりと目覚めて光とめざし、心となし、真実の智慧と目覚め生きる事である。

真、智慧をもった生活こそが最上の生活であり、命の道なのであるから、その真理真実の命、道へと目覚めかえるのが人の知るべき正法なると知る事である。  

生命の潜在的形成力に反して生きるから、そこより苦しみが生じるのである!

さればその生命の指向する正しい道を全ての中に見て、それと対立せずに生きる事である。

苦しみとはその心と行いを正すためにあがってくる、生まれてくるのであると知り天地と生命の中に一と見る事ができれば人はその迷いから離れて生きられるのである。  

調和を調和と知り、対立を対立と知る事はその生命と世界の一切が調和を指向するがゆえである。

対立を指向するのであるならば調和と対立という心、知識、想念を知る必要はなく、またどちらでもよいならば、それを知る必要は無いのであり、その世界と生命と全てが正しく調和をめざし、指向し、道と生きるゆえにこそ、それをそれと知る必要があり、知りゆくのであり、持つのである。

それを忘れて対立ばかりして生きるから恨み、
憎しみ、
蔑み、
罵り、
怒り、
恐怖、
疑心、
悪口悪言、
虚言妄語、
謗り、
傷つけあい、
害しあい、
犯しあい、
殺しあい、
苦しめあいが生じるのである。  

親子の対立は苦であり、苦の因である!

夫婦の対立は苦しみであり、苦しみの原因である!

家族の対立、
友との対立、
師弟の対立、
仲間の対立、
組織の対立、
国の対立、
民族の対立、
人種の対立、
思想の対立、
宗教の対立、
神との対立、
人と大自然との対立、全ての対立するところはみな苦しみであり苦しみの原因である!

ゆえにその苦しみが苦しみとしてそれを示し、それを戒め正し、生命の指向するところである正しい調和へとかえさんと教え働くのである。

これを正しく生命の上に見て自らの命のゆくところを知りゆく事は、その苦しみより脱ける道であると教えるのである。

これを天地大自然、宇宙、世界全ての中に見てよく知りゆく人はゆえに、よく真理を知る者となるのである。

これを、生命と天地宇宙、大自然の調和という道より見て真理と至る一つの門、道と教えるのである。  

自然法爾の道は、それをそれと正しく指向せしめる道である。

それをよく見つめて知る人を賢者と言うのである。

生命の潜在的形成力を知り、生命の全て指向するところの道を知り正しくゆくを知る者を覚めたる人、覚者と言うのである。

人はこれを信じず、理解できず、わかろうとしないから自らで悪趣へおもむき、苦しみを受けて流転するのである。

そのような人々は生命の完成をみる事なく、真と生まれる事も無いのである。

ゆえに人々よ、
生命の指向するところをよく知りなさいと教えるのである。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌

オ一ン・アビラウンケン

我が教えの全てに触れて光と智慧を得なさい。