神秘如来の導きの体験から! | 太陽王法の会

『神秘如来の導きの体験から!』  


祈り瞑想となす私の眼前に如来が光と共に顕れて私に向かいて座したのである。

「そのまま私と一如となる」
と申さるに
あまりの尊さにもったいなくもあり
それはあまりにも怖れおおいと答えると「如来はそのまま右まわりに巡りて私の身と重なり一如」
となりたのである。

是れ、
偉大なる真理世界において、如来の法と説かれる時に示された神秘体験の一つなのである。

如来は一如合一して見せて、色々の神秘の法をそこに験わしめて見せてくれたのである。

私は
そこより大日如来と一つになりてその法の中において修行をしたのである。

これ人に語りても
とても信じられず、理解できるものではなく、逆に疑心を強くしてしまう怖れもあり仏達もまた
難信難解、
信じ難く、
理解し難いものと言う通りのものなのであり、ゆえに皆、
自ら修して道と出会い自ら験証し体得なせと教え
その正法、
修法と教え与えてゆくのである。

私と如来が
一如となるは是れ、一切衆生皆是れ仏性有りと示する教えにして、全てが開き至れるところゆえに
その真実こそ実と体得せよと教えるのである。

如来は諸々の世界、諸々の法と現じて、私の身より虚空へと昇りて示したりもしてくれたのである。

観音菩薩、
不動明王が
そこと現じて妙にして不思議体験をそことさせるもまた法の中におきる事実なのである。

眼前虚空に数えきれぬ仏達が現じて、
回りゆく円輪に乗りて示されるに私はそれを見てまた大いなる歓喜の涙を流したのである。

更に
また神々が沢山集いあらわれて私を見に来て色々の法をまた示して修せしめてくれたのである。

それは
時に怖れ、
時に迷い、
時に涙し、
時に歓び、
時に落ちこみ、
時に恥じ入り、
その神秘の中に暮らしたのである。

私の示されし神秘の数々の修法は何十日にもおよびて
その間、
それの理解できぬ人々には気狂いになったとも思われもしたのである。

天衆が軍集となって降りてきたり
四大魔王が現じたり魔界と見せられたり身体の内と入りて内より食い破られる感覚を与えられたり、動物達の子等にこの身を食らわしたり、その動物達と一緒に死んでやろうとしたり、時の王と時をめぐり法を学んだり、これを語りても
語り尽くせぬ位、
神秘にして不可思議な世界の体験としか言う他ないのである。

その全ては私をその法の道と至らしめ、そこに鍛え、
そこと育て、
磨き、
悟り目覚め、
開眼へと至らしめんがためのものにして如来の慈悲より生まれたものなのである。

私はゆえに宗教、
特に仏教の神秘がいかなるものかこの身で実体験するゆえに、みなうなずけるのである。

秘密の庫を開く、
命の庫と開いて道を見、道と出会いて成道する!

真にそれは自らの命の上になされてゆくのであり、
科学などでは絶対理解出来ない命の真実がそこにあるのである。

ゆえに皆、
不可説と言い、
不立文字とも言い、難信難解、
不可思議法、
妙法等々と教え示すのである。

その世界と一つになって日々三昧の修法と過ごすに、
そこなる修行にてよく慈悲の心を育て、また死を超えた心を育て、怖れ無き心と鍛えられるのである。

一切空の心も、
忍辱の心も、
慈悲大愛の心も、
その中に知るのであり、その修行にてよくまた一切智を開いて悟りを得てゆくのである。

学無くして愚昧、
道無くして悪人、
無智盲迷の見本のような私!

仏法仏教に縁無くしてなにも知らない者にして、一経も読んだ事の無い私!

神、仏に縁無くして悪道極道三昧にありた私が、この正法真理と至りたゆえに無上の智慧と至りゆけたのである。

その教理を広大と説いて全てを超えている!

その事実こそが、
その証明であるとゆえに私はそれを書き残して示すのである。

如来は
また一如を示するに右まわりとなして私と一如となるを示して、私はまた自ら神仏の側の命と生まれるを真と目覚めて更に深く智智の修行に入ったのである。

全くの三昧の時はこうして成ったのである。

その時の私は、
大日如来の応身、
化身となりて、
自らが大日如来として暮らしたのであり、そのゆえに自ら説く身と生まれたのである。

この正法こそ偉大にして、道は真実とありて、神秘広大と開くに、これこそ大悟開眼の法、真の成道、成仏の法と示すのである。

人は皆その命の内にその道の扉を持っているに正法と修してよくそこと入り、
そこと開いて、
不退転と進みゆけと言うのである。

そこにおいての
大切の心が、
禅定に入る心構えと示す仏の教え、
慈悲の心、
忍辱の心、
一切を空と知る心なのである。

法中神秘に
なにがおころうと、三昧と入りて迷せず怖れず、仏の悟りへの道と信じ、しっかりと進むことが大切であり、その法中においての心、一切にむこうての慈悲の心!

「如来の室」
忍辱の心
「如来の衣」
一切を空と知り見る心
「如来の座」を
忘れずに持って全てに対いせと教えるのである。

たとえ天衆天魔、衆軍となして下ろうとも、この三つの心を忘れてはならないと教えるのである。

人は皆この命の庫と開いて命の偉大なる真実を知り、自己を高めて完成し、
真理へと生まれゆけと言うのである。

私の示せし正法と一切教をよく見て知り、心となし生き、
修し至れと言うのである。

これみな真理神仏の智見、悟りへと至らしむる道にして、
人間完成の道ゆえに私は広くこれを与えるのである。

ゆえに
「オン・アビラウンケン」

「ノウマクサンマンダ・ボタナン・アビラウンケン」
光明真言、
この大法正法こそ修してよく禅定と入り実と至れと教えるのである。

この神秘真実は実にしてその命の庫より虚空と至り、
一命に広大と広がりゆくと知る事であり開眼もそこに実と成ると知る事である。


太陽の法嗣

大日天光子

合掌

私の至りた神秘体験よりその一部分を示すものである。