対立論の誤ち! 1 | 太陽王法の会

『対立論の誤ち!』

(その1)
 

創価学会の池田大作氏が申するに、

(悪や魔をよせつけない戦いが必要である。それら全てをうち破ってゆく強き一念と祈りが不可欠である。またこの世は善と悪の壮絶なせめぎあいの場であり、それはこの世の永遠の劇である。宇宙は常に善と悪との闘争の舞台なのである。そして大切なのは、仏と魔との戦いに中間は全くないのであり、その本質は、仏の軍勢なのか。魔の軍勢なのか。そのどちらかである。一人の人間が三割だけ仏の側で、七割は魔の陣営だとか。)

魔だけれども、言っている事だけを聞けば、ちょっとだけ仏の味方だとか。
それらは仏性の目から見れば、生命の実相を知らないこっけいな考え方と言わざるを得ない。

「大笑い!」

(ゆえに悪に対して厳しく戦い、打ち破る勇者でなければ仏子としての使命を果たせない。)

(聖教新聞より!)と示すのである。

これはとても良い意見でもあり、善と生きる真実の真実を覚めているならば真にすばらしき事である。
しかしその言葉は、宗教の正邪の対立をもちて示し語りた一説であり、この言文そのものは大変よいが、
正しくは、
仏と菩薩、
神々天人、
神仏の子としての言葉としてはいささか誤つものと言うのである。
神も仏も、真理世界は本来その対立を教え説くのではなく、争いを進め説き教えるのではない言う事である。
善と悪これを対立させて争いとなすこと、これは本来神仏の意とするところではないのである。
善と悪との対立を超えたところにいるのが神仏本来の世界である。
またそれでなくては法界体性智の悟りも平等性智の悟りも、一切衆生済度の本願も成立しなくなるからである。
善と悪を対立させず、全ての真理、道を見つめて全てをそこと覚めせしめて救う事こそが、神と仏の本質であり、
天の務め、
宗の本願とするところである。
善のみを認めて救うのであれば当たり前の救いであり、真の善人善者なればまた本来的にもともと救われているに、救いの本願これもまた必要ないのである。

神も仏も
菩薩天人も
明王金剛も
聖霊
諸霊も
全ては悪こそ覚めさせて救わんとなすのである。

仏法の悪とは、一切の無明をさすのであり、その無知無明こそを払いて救う事こそ、その本願、意とするところなのである。
蓮華は泥池の中に咲かせるのであり、
月は闇の中においてこそ輝くのである。善と正しく覚め光と生きる者を救えるのはごく当たり前の事であり、この善者にまた無智無明の三毒あるゆえにそれを正し、また教えてゆくのが救いである。

ましてや悪と迷いし者はこれ、悲れ見失いし大無明なるに、これこそ本来救うべき対象これと言うのである。
ゆえに無明の悪は迷者なるに、対立して争うべき存在にあらずして、
卑下し
蔑み
馬鹿にし
さけゆく対象に非ずと言うのである。
これこそ真に、
救わねばならない一番の対象者であり、光をあててやらねばならぬ闇である。
闇とあてて光とかえさずして救いはないのであり、無明の迷者を救わずしては、平和の天地の生まれる事は無いのである。
ゆえに悪とは分断対立して壮絶な戦いをするのではなく、
そこから覚めかえして救う事こそが本義の道なのである。
この世は悪とのせめぎあい、
戦い、
闘争の場ではなく、その無智無明の命から覚める場
覚めさせる場
覚めて人間形成
人間完成して生まれゆく場
生まれる場にして、命の場なのである。その無智無明の命を、智と力をもちて打ち破る事によりて全てを闇から光へと導きゆく、
救いゆく事こそが真の道なのである。
仏、菩薩はその為に生まれ出て悟りを開き自己を完成して、迷う人々に光をあてて利他と生きるのである。
闇の命と破るのは救いであると同時に、自己の鍛えとなるのであり、それありてまた力をつけられるのであり、高くまた登れるのである。
それありてまた我ありであり、道は分断でも対立でも、断絶でもないのである。泥にたすけられて蓮華は咲き、闇の中ゆえに月は輝くのである。
全ての命にこの蓮華も、月もあるのである。
分け対立し、
卑下する者、
争う者達こそ愚かなのである。
そのゆえに逆に無智と落ち真の悟りから遠ざかるからである。
全てに仏智見すなわち悟りの智見を開き示して、その悟りへと全てを入らしむる事!
これこそ一切諸仏の願いとするところであり、出世の目的なのである。
この真意を実と知る
ならば、一番に救うべき相手は誰れなのか実と知れる筈である。
神は九十九匹の迷わぬ羊を放っておいても、一匹の迷いた羊を探しにゆくのであり、失いたる者をこそ取り戻すために光となってくるのである。
仏はその神中の神である。
大悟の光はだれのためにあるのか、よく考える事である。
悪と断定して決めつけるのも無智であり、それがなんのために生まれ世になにを教えようとしているのか知る事も大切である。
その全てが因縁に依って生起するものであり滅するものであると知り、その道がまた悪因悪果を与えて正し戒める事も知る事である。
この罪に対する罰も命の救い、道の上に正しくあれば救いなのである。
救うために裁く、その罪の衣を裁いても命これを裁くのではなく、その罪の枝を切ってやっても、幹そのものを倒すのではない。
そこにあるのは対決ではなく、救いなのである。
よく道の上に見て正しく考えて見る事である。
また仏と魔との戦いに中間は無いと言うが、仏にとって魔王はまた救いの対象者であり、
悲れみ、
慈悲広大と示して覚めかえすべき一番の対象者である。
また一方では仏をより強くし、
より高め鍛えゆき、真の金剛身の仏と完成しゆく道の友でもあるのである。
闇が強ければ光は更に増すのである。
その光を光と生むのが慈悲の心であり、憎しみ、
怒り
闘争
断絶
蔑み
ただのせめぎあいではないのである。
慈悲と光これこそが仏の命なのである。ただ
壮絶な戦いの相手、
戦うだけの相手と決めつける事は道の真実とはずれているのである。
闇王を智慧と慈悲の光をもって屈伏せしめ、仏帰依なさしめて光とかえすは、仏のなす道の一であり、魔王をまた智慧と慈悲の光で屈伏せしめ仏帰依せしめて、
諸天善神、
仏法守護神と変えるのも、仏のなす道なのである。
悪を悪と知りぞけるのではなくして、悪を善と覚めかえして真理の命、光あふれる真実の大きな命と導いてゆくのが仏である。
仏法経典に示す魔の相には、神秘成道の世界の甚深の理ありて示されるのであり、またその神秘実践の世界はこれ、
人格完成、
仏を誕生せしめる道でもあり、そこと至り入りて自ら体得せねば理解できぬものなれど、その真もまた、
時に戒めであり
鍛えであり
磨きであり
救いなのであり
その神秘修法の内なる戦いは、
自己の智慧と心、
命を鍛えゆく上での最たる導きとなる事も道の中の道なのである。
みなそこには命の道と理があるに、実と成道しその道と入りて神秘鍛えと磨きを実と験証して、実と悟り至らねばなかなか理解しがたいとも知る事である。
すなわち、仏を光と至らしめるための影の働きこれとも知る事であり、その影はまたその光のあらねば生まれず!
影またその本体は光と一如なるに、光と影の相を見ればわかる事と示すのである。
その光と影を分断してただ対立する事は自己の命を二つに切るに等しくして、正にあらずと言うのである。
光天と帰ればその影も一と帰るのであり、その影が働いて覚めかえす道もあるのである。
たとえば舌切りスズメの意地悪婆さんに悪霊、
魔、
お化けのつづらを与えて覚めかえす、戒め正す働きもまた道なのである。
よく道こそ見よと言うのである。

続く


太陽の法嗣

大日天光子

合掌