『宗教家と言うものは!』
宗教家と言うものは命とその正法のために生きるのであり、それを求め、
それを得て、
それを天上天下に広めるため、
与えるために生きるのである。
宗教家が金欲のために生き、
金集めに無中になっている相は邪道であり、
真実の宗教家とは言えないのである。
あえて宗教家が金を必要とするならば、その修行とその働きを維持するための生活費の他は、
全て世界の苦しむ人々、
弱き人々、
助けを必要としている人々の為にこそ必要と必要とするのであり、
また世の中を正しく生み作るために必要とするのである。
即ち人と人の世の為に必要とするのであり、
自分と自分達の城のみのための欲得で必要とする事は、
みな本来の相をはずれるものと言うのである。
人はこのように見て、
そこにこそ真実と不真実を見よと示すのである。
そして人は、
上面のキラキラの宝殿や見せかけに迷い、
迷わされてはならぬと教えるのである。
その法の教えの中にこそ真実の宗教を知る事であり、
自らを生みつくり、人と人の世を正しく生み作りて、
真理と神仏と、
全ての目的にそうて生きるをこそ知りて、
そこにこそ真実の宗教を知って生きよと教えるのである。
真の宗教家は、
ただ法と命と道をこそ第一となして、
よく真実と道理をもって正しい智慧を磨いて、
それを守り、
それを広め、
全ての救いと命の道を正しく与える事に命を生きよと示すのである。
自らの悟りを完成し、
一切をその智見へと悟り入らしめる。
自らの悟りを完成させつつ、
大いなる命を知って大いなる慈悲を根本として、
自他一如の救いこそ道となして生きる事であり、
大いなる命と生まれる事をめざす事であり、
全てがそこと帰入して輝く命、
輝く世界と完成してゆく事をめざす事である。
そのために正しく道を見て、
その道と一つに生きる事が、
最も大切な事と教えるのである。
「宗教家よ、
その世界よ!」
当たり前の事を当たり前の事としてできる事をやり、
やった事も忘れてしまえるのは、
それを当たり前の事と思うからです。
宗教家は、
そこに生き生かされる団体これが、
社会、
世界の為に尽くすのは当たり前の事であり、
むしろできる事をやらないで自分達の城や利益ばかりを追い求めている方がおかしいのです。
当たり前に行い、
当たり前に進んでいる事を神仏は常に見つめておられるのです。
なにも飾り立てて自慢する程の事はなにもないと言う事です。
その世界のできる事の万分の一も実はやっていないのですから。
多くの苦しむ人々を知り、
その人々の事を訴え論じる。
その人達が御殿のような建物を次々と建てて、
自分達の利となる世界ばかり作っている事は、
飢え苦しむ人々のとなりで大御殿に暮らしてキラキラと身を飾り立てて、
贅沢三昧の食事をならべてあれが嫌いこれが嫌いと言っているのと同じだと言うのです。
今、
死ぬ人々が沢山いると叫び訴えながら自分達は御殿を沢山建ててのうのうと着飾っている。
その宗教家と団体ては一体なんなのであろうか。
虚言をもって衆生を騙し搾取する者達と言われても当たり前であると知るべきです。
その者達は自らの虚言の為に地獄の門を確実に開いてゆくのであるから。
千億の金を生み出している者達が一億の金をもって大善行しているようぬ大々的に飾り立て自慢の花を咲かせる。
その人々の腹の中にはこれをもとでに更に摂取しようという魔が住して人々を常にねらっている!
ゆえに自慢と飾り立てる事に多くを費やす人を見たら気をつけるべしと教えるのです。
宗教の中に生き生かされる団体!
人々よ!
あなた方はとなりに死にそうな人々がありても、
あなた方の家、
御殿を建てて必要以上に飾り立て増やすだろうか!
それはみな次の利益を考えるからなされるのです。
さればその団体は、もはや事業、
虚業の団体であり、神仏の住する世界では無いと言えるのです。
人はゆえにあるべき相をこそよく見つめて生きる事が大切であると教えるのである。
人物と証される人々は皆、
世界と人の世と人の為に役立つ事をなしてもそれを当たり前に考えている人々なのです。
当たり前と思うからこそその人々にはそれ以上の事ができるようになるのであり、
道が開いてゆくのです。
人は本来皆、
できる事、
当たり前の事をやって生きてこそ普通なのです。
そう思える人々こそ静かに常に道を生きれる人々なのです。
一切は皆ただ一つの道をめざしている、人はゆえに一切が皆自らの人格完成、
人間形成のみの為に存在している事こそ気づかなくてはならないのです。
それが生命の道であり、
真理への道なのであるから。
人々よ!
宗教家達よ、
早く気づく事です。
太陽の法嗣
大日天光子
合掌