先の続きを示すに聞く事なり。
日月一如と冥合なすに明の生じて、その明と生じた王をまた明王とも言うのである。
この明諦こそ妙法合わせ鏡の法、と言うのである。
地湧の蓮華また夜明けの朝これを示して、妙法蓮華の法の歌をそこに歌うと知る事である。
されば妙法蓮華経の本尊は太陽にして、マハ―ビルシャナ、『大日如来』と言うのである。
ビルシャナ、ヴァイロ一チャナとは本来、太陽の事をこそ言う事を忘れてはなりません。
【【南無妙法蓮華経の本尊も太陽にして、この法もまた大日の示す太陽の法の一つにすぎぬとここに示して証するのである。】】
《蓮華の本尊はマハ一・ヴァイロ一チャナ》
即ち太陽主たる法身、大日如来である。蓮華は皆この太陽大日に一如冥合してこそ開くのである。
されば蓮華仏性と開くもそこに尽きると知る事である。
妙法とは入我我入、一如冥合なす法と知るべきである。
南無妙法蓮華経の実法本尊は太陽にして、大日如来が法と道と義に促して正しきものと知る事である。
故に法華経の結経たる一、観普賢菩薩行法品にも、こう示すのである。
時に空中の聲即ち、この語を説かん。
「釈迦牟尼仏を毘廬遮那遍一切處と名付けたてまつる。とあるのである。」
毘廬遮那遍一切處とは大日如来の法界処にして一乗仏の境地を示すのである。
一切大日如来となりて、その大日如来と釈迦仏が一つになる事をここに示すのである。
この毘廬遮那とは本来太陽の事にして、この太陽宇宙これを示すのである。
即ちこの地球天地は悉くその毘廬遮那遍一切處と言うのである。
されば妙法蓮華経の義と示せば太陽たる大日如来と一如冥合する事をして妙法、大円鏡智と言う。
そこにおいて自性仏性たる蓮華を開き咲かせて目覚めるをして、妙法蓮華の法と言うのである。
この法は常に地湧の蓮華をして示し、説きて教えるを知る事である。
蓮池の蓮華は朝の太陽光明と冥合して一と開くを見せるのであり、その相そのままに妙法蓮華経の相と示すのである。
故に妙法蓮華経と唱える者達は、自ら達の実なる本尊に気づき目覚める事である。
その者達の本尊は天と輝く私の父たる太陽主、大日如来と知る事である。
そこにおいて神秘世界を実と開いてその秘密の蔵を開いてゆくに、一命の真実が顕れて実と証し実得成せると知る事である。
これ甚深にして大神秘なるに、実と開き至らずしては人の理解を超えると言うのである。
早くこの事実こそ目覚めて、全ては太陽たる大日如来にこそ詣でゆけとは教えるのである。
私は実とその道を開いて成道し大いなる法を実得するに、これを教えると知る事である。
合掌
オ一ン・アビラウンケン
太陽の法嗣
大日天光子