古代出雲

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中国の上海の近く、蘇州に無錫という町がありますが、春秋戦国時代(紀元前8世紀~3世紀頃)にはこの近くの山から錫がとれた。春秋の時代には呉越同舟と言われるくらい仲が悪かった呉と越ですが、おそらくはこの錫をめぐる利権の争いがあったと想像されます。

呉と越は黄河文明の地から離れた中国の南にあって、春秋戦国時代には後進国とされていた。にも関わらず、呉と越からは春秋五覇に数えられる覇王が出ている。

呉王闔閭(在位紀元前515年 - 紀元前496年)
呉王夫差(在位紀元前496年 - 紀元前473年)
越王句践(在位紀元前496年 - 紀元前465年)

春秋五覇というのは、名目的な存在に成り下がっていた周王朝に代わって天下を取り仕切った諸公のことです。中でも斉の桓公と晋の文公は有名で斉桓晋文と称される。五覇の代表ですね。あとの3人は諸説あって定説はありません。

呉王闔閭は夫差の父で、夫差に謀殺された。この呉王夫差と越王句践は宿敵の間柄だった。臥薪嘗胆の逸話を知っている人も多いはずです。

平城京の跡はいま発掘調査中ですから、もしかすると運河の痕跡が見つかるかもしれない。そうなると、不潔さが遷都の理由のひとつだったという有力な説も立ち消えになりますね。

話を本題に戻しますか。銅は古代にあっては実に役に立つ金属だった。鉄よりも格段に加工がしやすい。

石器時代のあとに青銅時代がきますが、この青銅というのは銅に錫を混ぜて作られる。銅だけでは柔らかいが、錫を混ぜると固くなる。農機や武器を作るには、だから錫が必要だった。

呉王夫差が父の闔閭を葬った虎丘



前漢の頃には取り尽くされていたと言われますが、無錫には錫はあった。この錫と銅を混ぜて作った強力な武器。これこそは呉と越が中原に覇を称えることができた理由だった。 [続く]