古代出雲

3.

青丹よし奈良の栄華は短かった。桓武天皇が784年に長岡京に遷都するまでの74年間です。その後、794年には都は平安京に移る。

遷都の理由は、強すぎる寺社の影響力から離れるためとか、色々と言われていますが、平城京は臭くて住めなくなったから、という説も有力です。

近年の発掘調査によれば、どうも奈良のあたりはもともとは大きな湖だったらしい。それが近畿の大地震で陥没し、水が干上がって大きな湿地帯の盆地ができた。これが稲作に適していて、大王が本拠とするに相応しい経済力を持つ王国ができた。邪馬台国、とはあえて書きませんが。


中国では都はかならず大河のほとりに作られる。人間の営みに上下水道は欠かせないからです。

たとえば長安は、黄河に沿った、何本もの支流が流れ込むところに作られた。洛陽は洛水のほとりに作られた。洛陽と呼ばれたのは洛水の北に位置するからです。陰陽学では北は陽とされています。


三国志演義の関羽の首が埋められた跡に建てられたという

洛陽の関林廟






平城京は中国の都を真似て造営されたようですが、規矩正しく城坊を整えるのに邪魔だったのか、城内を貫いて流れる川がない。都の住人は下水と汚水の処理に悩んだでしょうね。おそらく奈良の都ではあちこちに肥え溜めが作られたはずです。大小便を川に流すことができませんから。

そのために、10年、20年と都を維持するうちに、奈良はどんどん臭くなっていった。ナラだけに臭いのは当たり前と笑っていられないほどだった。と想像されます。

[続く]