ケセーヌに死す

7.ロック喫茶と吉祥寺の名物社長

S の釣り竿から放たれた錘と糸がほとんど真横にぶっ飛んでくるとは思ってもいなかった。このとき釣り糸が僕のサングラスのツルに引っかかったのは嘘でも誇張でもない。僕が天国に一番近付いた瞬間だった。

危なかったねぇ。あの位置からまさかこっちに錘が飛んでくるなんて予想もしないもんなぁ。もう一漕ぎしてたら俺にぶち当たってたかも。ボートの上で僕らは口々に言い合った。

夏の太陽はあくまで高く明るく、海の上で若い4人が間一髪で惨劇を逃れたことなど知らぬげに輝いている。死をやり過ごしたユーフォリアに浸りながら僕らはボートを漕ぐ手にいっそう力をこめた。

それから数分。誰かが言った。『ちょっと待ってよ。俺たち沖に流されてるんじゃない?』

その言葉で我に返ってみると、僕らのボートは砂浜からすでに200メートルくらい離れている。扇形になっている遠浅の湾から出て、いままさに大海に漕ぎ出ようとしているところだった。



海辺の遊覧ボートと言っても大きさは遊園地のボートと変わらない。ボートのまわりの波は徐々に高く、船板をバチャバチャ叩く波の音も大きくなっていく。

浜に帰らないと。僕らは大慌てでボートの舳先を浜に向けると漕ぎに漕いだ。ところが1分漕いでも2分漕いでもボートから見える浜の人たちの大きさはほとんど変わらない。漕ぐ手を休めるとボートは明らかに沖のほうに流されてゆく。ボートがなにかの流れに乗っている。僕は心中、青くなった。


8.

僕らのボートは離岸流に巻き込まれたのだった。


と今なら言えますが、当時は離岸流なんてコトバも存在も知らなかった。

以下はウィキペディアからの抜粋です:

離岸流による事故

遠浅の海岸を中心に発生しやすいため海水浴客が知らず知らずに巻き込まれ、沖合に流され事故となるケースがある・・・・

離岸流の速さは秒速1mを超えることもあるとされており、巻き込まれたら流れに逆らって波打ち際へ戻ることはまず不可能で、離岸流に逆らって泳ぎ切ることは、水泳のオリンピック選手でも困難と言われている。一般的に、一旦、海岸線と平行方向(流れに対して直角方向)へ泳ぎだし離岸流から脱出してから海岸に向かえばよいと言われているが、実際に離岸流により沖合に流されると、パニックとなりそのような冷静な判断は難しくなる。沖合では僅かに高い波も、漂流者の視界を奪い方向感覚が掴めなくなり、自分が流されている方向すら分からなくなる。複雑な流れにより急に波浪が高くなることもあり、海水にもまれそのまま溺死してしまう可能性も高い。


漕いでも漕いでも浜は緩やかに遠ざかる。子供の頃に父から聞かされた話によると、父の弟は小学生のときにプール事故で亡くなったという。ああ、哀れ。俺は我が一族の近代史で2人目の水難による夭折者になるのか。僕は泳ぎが得意じゃありませんから、そんな不吉な予感が頭を過った。


幸いだったのは高校時代からの友人のGがいたことです。彼はs船大学に1年数カ月いて東京湾でカッターを漕ぎまくった経験がある。集中治療室大学では小劇場のほかに剣道部にも席を置いていた。身長180センチ超で腕っぷしも強い。左右のオールのもう一本を担当していたのはT兄弟のどちらかだったと思いますが、Gの体力に比べると格段に劣る。


このオールの左右の力の不均衡。これが結果的に4人の命拾いに繋がった。おそらくボートの向きが自然に一方に偏っていったお蔭で離岸流から脱出できたんでしょう。もちろん僕が手で必死に海の水をかいだのも微力ながら4人の生還に貢献した。


無事に浜についたときはそのまま砂の上にヘタリこもうかと思いましたが、Tのガールフレンドもいるし地元の子供たちも見ている。ナ~~ンもなかった。すべて予定通りだったよ。なにくわぬ顔で冷静にボートを下りた4人でありました。


9.

気仙沼大島の海から無事に生還を果たした男4人。このうちG は大学3年から新宿のロック喫茶『ライトハウス』でバイトを始め、のちに店長になる。私70rockもこのロック喫茶にいた。このブログで静かに進行している『197X新宿ロック喫茶ライトハウス』の重要な登場人物のひとりです。

集中治療室大学の小劇場の演出家だったT は今では吉祥寺の名物社長。オーガニック料理が人気の「ハモニカキッ○ン」、ヤキトリの「てっちゃん」、スペイン・イタリアのバール(立ち飲みバー)をイメージしたお洒落なお店「MISHIMA カフェ」などのオーナーだ。




3,4カ月前に放送されたテレビ東京の『出没!アド街ック○国』にも顔を出してましたね。外国家電やAV機器やソフトを売るビジネスが離岸流に乗り始めたのをいち早く察知して、最近は飲食業をメインストリームにしているらしい。下北沢にも店を出してるようだ。若い方はどしどし行って飲んで食べてほしい。青春は短い。

TとGは1970年代の末頃、現代美術やロックや現代舞踏をビデオで録る活動を始める。僕も幾つかビデオカメラを回した。この頃のお話はいずれ『映像氷河期』というタイトルで書くつもりです。

実は僕にはほかに1度、若い命を落としかけた経験がある。場所はやはり三陸の浄土ヶ浜だった。危うく浄土に行きそうになったお話。これも近いうちに書く予定です。(完)

by 70rock